人麻呂に手向くる幣や風光る 五島高資
柿本人麿神社ー 場所: 川越氷川神社
葦牙の足一本の御幣かな 高資
里芋に刺す釜〆や南風 高資
枯葦を抱く紙垂こそ光りけれ 五島高資ー 場所: 川越氷川神社
氷川神社はご祭神を見れば、埼玉の大宮を本社とする古代出雲族の国つ神系統ですね?。紙垂(しで)とは、神前に奉げる御幣のようですが、紙が考案される古代には植物の穂にても祓串、御幣とされたとも聞いたことがあります。静謐な神殿の奥にこそ光りが当たれば、厳かな雰囲気は厭が上にも上がりますね!!。
人麻呂のお話を伺ったあと宮司さんから頂きました。葦を包み重ねるような紙垂に趣深いものがありました。
拆鈴の弥涼暮月青みたり 五島高資ー 場所: 常総市
川風や人麻呂祀る青葉闇 五島高資ー 場所: 雷電神社
香取神社(人丸神社合祀)
梅雨晴を映してカーブミラーかな 五島高資
梅雨晴の乾坤うかぶ鏡かな 五島高資
梅雨晴の空のあふれる鏡かな 五島高資... もっと見るー 場所: 常総市
せせらぎや人麻呂祀る青葉闇 高資ー 場所: 日光市・人丸神社
いま大学で東国にある人麻呂信仰を研究しています。利根川水系河畔に人丸神社が多く、そのあたりには砂鉄や生物由来の褐鉄鉱・赤鉄鉱などの産地や製鉄遺跡も見られます。現在でも佐野市の天明鋳物は有名です。人麻呂が東国に来たとは考えられませんが、彼を航海・鍛冶の神として信仰した渡来系の人々の思いが神社という形で残っているのだと思います。しかし、だんだんとそうした神社も少なくなってきています。今のうちにその縁起などを調べたいと思っています。
人麻呂に似てくる石や霞立つ 高資
磐船にたつ人麻呂や昼霞 高資ー 場所: 足利市・人丸神社
散りてなお燃え残りたる椿かな 高資
落ちてなお真赭に椿咲きにけり 高資
地をくくる唐紅や落椿 高資ー 場所: 足利市・人丸神社
葉桜やひもろぎに日と月の舟 高資ー 場所: 柿本慈現大明神・那須烏山市
先日、川越氷川神社の宮司さんとお目にかかる機会があり、人麻呂信仰が、石見、出雲、若狭、琵琶湖(高島、蓬莱、和邇)・近江、淀川から海路(太平洋経由)あるいは東山道(瀬田の唐橋)を経て東国へ伝わった経路があるのではないかということでした。そうするとやはり航海と鍛冶に関わる渡来系集団と関係が深いことになりますね。
月池の中には島がありました。人麻呂の「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」を思い出しました。
人丸神社・さくら市
コメントのやり取り
人丸神社はなぜか憧れます。そう言えばむかし梅原猛の『水底の歌』に夢中になりました。中学生の時のことです。
梅原猛もやはり栃木の人丸神社を参詣しています。そもそも人麻呂を祀った神社は圧倒的に西日本に多いのですが。
そうでしょうね。栃木にあるとは思わなかった。でも和歌の神様だから日本中どこにあっても不思議はないか・・・。
和歌の神と言うよりも、水運と鍛冶に関わる集団による人麻呂信仰の影響が大きいようです。よく船の名前に何とか丸というのもそれに関係しているのではないかと思います。
へええ~そうだったのですか!?勉強になりましたm(__)m
関東では利根川水系、那珂川水系の河畔に多く人麻呂を祀った神社が集中しています。これからそれらをさらに研究して纏めていきたいと思っています。
秋の津や人麻呂に似る観世音 高資ー 場所: 多々良沼公園
人麻呂を信仰した渡来系金属精錬技術者集団と古代水運との関係は日本の王権にも深く結びついているようです。
高師小僧は褐鉄鉱の一種で生物由来の鉄鉱石です。稲でなくても葦でもその根元に出来るようです。豊葦原中津国とも関係ありそうです。
獅子の目に澄みゆく空の青さかな 高資
秋の海を湛えて獅子の眼(まなこ)かな 高資
目交の獅子や澄みゆく水の底 高資
人丸神社(御祭神・柿本人麻呂)
このあたりには、歌垣(嬥歌)で知られる赤見山もあり、古代、海を渡ってきた渡来人が開拓したところではないかと思われます。彼らにとって柿本人麻呂は故国の血を引くヒーローだったのかもしれません。社殿の裏にある大木の根元から泉が湧いており、その水が神社を巡っていて境内はあたかも島のように浮かんでいるように見えます。ー 場所: 栃木県 佐野市
狛犬は、渡来人である秦氏や徐福を介してヒッタイトのライオンに由来するという人もいますので西域と関係があるのかもしれません。そう言えばこの神社のすぐそばを旗川という河が流れており、旗と秦が関係しているのかもしれません。
みあらかの畳に溜まる冬日かな 五島高資ー 場所: 栃木県 佐野市
水音を留める筆や人麻呂忌 五島高資
図 : 物部神社・人麻呂木版(桜井満『柿本人麻呂論』)ー 場所: 物部神社
https://www.travel.co.jp/guide/article/3097/
【天理市櫟本地区は歴史の宝庫!和珥氏から柿本人麻呂、在原業平まで!】
巨大な前方後円墳の上に!?重要文化財の本殿を持つ和爾下神社
櫟本(いちのもと)の集落は、西名阪自動車道天理インターの出入口周辺に広がっています。実際に当地を訪れると、一見、どこにでも見られるひなびた集落のように感じられるでしょう。しかし、意外や意外、かつては奈良盆地を南北に走る「上つ道」(かみつみち)と東西に伸びる「北の横大路」とが交差するところとして、古代以来、大いに栄えた交通の要衝なのです。
なかでも、当地を支配した和珥氏(わにし)は大きな勢力を築き、古代の大和王権を構成する有力豪族ともなりました。当地が和珥氏の勢力下に置かれていたことは、地区の鎮守社が和爾下神社(わにしたじんじゃ)と呼ばれていることからもうかがえます。桃山時代の様式を伝える本殿は国の重要文化財に指定されており、櫟本が伝える豊かな歴史の一端を垣間見ることができます。
注目したいのは、本殿の鎮座する小高い丘!和爾下神社は、実は、和爾下神社古墳と呼ばれる巨大な前方後円墳の上に鎮座しているのです。古墳の全長は120メートル。4世紀末から5世紀初頭にかけて造られたと考えられており、その東方に築かれている東大寺山古墳ともども、当地の盟主的な古墳に位置づけられています。土地柄、和珥氏の族長が埋葬されていることは、間違いないでしょう。
石棺の蓋石はどこから出土?和珥氏の末裔・柿本氏ゆかりの柿本寺跡
和爾下神社古墳に寄り添うように、古代の寺院跡も残されています。柿本寺(しほんじ)です。その名のとおり、和珥氏の末裔に当たる柿本氏の氏寺で、奈良時代に創建されたと考えられています。柿本寺を描いた大和文華館所蔵の『柿本宮曼荼羅図』からは、中世の柿本寺が、現在からは想像もできないほど、壮麗な寺院であったことがうかがえます。
柿本寺跡で注目したいのは、敷地内に置かれた写真の石!これは古墳から出土した石棺の蓋石で、一説には、和爾下神社古墳から出土したものであるとされます。
『万葉集』を代表する歌聖・柿本人麻呂ここに眠る!境内に残る歌塚
柿本氏から出たもっとも有名な人物として、歌聖とたたえられる万葉歌人・柿本人麻呂の名を思い浮かべる人も多いでしょう。境内に立つ歌塚は、石見国で亡くなった人麻呂の遺髪を埋めたところであると伝えられています。
円墳状の盛り土の脇には「歌塚」と刻まれた石碑が立っています。これは、享保17年(1732)、人麻呂を尊崇する歌人で医師でもあった森本宗範らによって建立されたもの。「歌塚」の文字は、後西天皇の皇女・宝鏡尼によってしたためられています。
『伊勢物語』筒井筒の段を憶えていますか?在原業平ゆかりの在原神社(在原寺跡)
西名阪自動車道天理インターの南側には、在原神社が鎮座します。神社の周辺には、明治9年(1876)まで、在原寺と呼ばれるお寺が存在していました。創建は承和2年(835)とも元慶4年(880)ともいわれており、平安時代を代表する歌人であり、当代きっての美男子であったとされる在原業平と深い関わりを持っています。一説には、業平は当地で暮らしていたともいいます。
中学・高校時代、古典の授業で業平を主人公とした『伊勢物語』23段(筒井筒)を読んだ人も、多いのではないでしょうか。実は、境内には、その「筒井筒」とされる井戸も残されているのです。
人麻呂といい、業平といい、櫟本の地が、歴史上、著名な歌人たちと深い関わりを持つ土地であったということ、意外ですね。
子授けと安産の神さまとして知られる楢神社
地区の北方に鎮座しているのは、楢神社(ならじんじゃ)。創建は奈良時代後期で、かつては地区の東方に位置する宮山に鎮座していました。祭神に五十狹芹彦命と並んで鬼子母神が名を連ねていることもあり、古来、子授けと安産の神さま、子どもの守護神として、近郷近在の人たちから信仰されています。境内には、8代目市川團十郎が奉納した井戸も残されています。
おわりに
和珥氏を筆頭に人麻呂や業平の事績など、櫟本のたたえる豊かな歴史性をご理解いただけたのではないでしょうか。ほかにも、9世紀にさかのぼる聖観音菩薩立像を有する長林寺、古来、かぼちゃをそなえる風習を伝えるかぼちゃ薬師(興願寺)など、櫟本地区にはまだまだ見るべきところがたくさんあります。櫟本地区をぶらりと散策し、その知られざる歴史をご自身で再発見してみてください。
浦島の鰐に跨がる伊奈良かな 五島高資ー 場所: 雷電神社
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