蘇我氏が求めたのは鉄でなく辰砂(しんしゃ)?

蓬莱や霞立ちたる室根山  高資

槌音の木霊や霞む室根山  高資


https://www.news-postseven.com/archives/20170727_581151.html  

【不老不死を求めた秦の始皇帝 水銀含む薬を飲んで死亡】

絶対的権力と富を手に入れた独裁者が、最後に求めるのが不老不死の肉体だ。己の命のためなら手段を選ばない。秦の始皇帝の「生への執着」はどんなものだったのか。

 秦の始皇帝は老いと死を極端に恐れており、強く不老不死を求めたことが「史記」に記されている。始皇帝は不老不死の秘薬を研究させ、「辰砂(しんしゃ)」を基本原料とした“丹薬”と呼ばれる秘薬を作り上げた。

 しかし、主原料となる辰砂とは、水銀が硫黄と結びついた「硫化水銀」で、不老不死の効能はもちろん得ることはできなかった。猛毒の水銀を含む丹薬を飲んだ始皇帝は50歳で死去している。

 歴史作家の島崎晋氏は「古代中国では『水銀』は聖なる薬でした。始皇帝以後、『水銀』を服用し、中毒死した皇帝が何人も史書に残されています」

※SAPIO2017年8月号

水煙に澄みゆく空の高さかな  高資

 本日、金剛界結縁灌頂を授かりました。ー 場所: 高野山 金剛峯寺


https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11906061402.html 

【「鉱山」を守る神仏~空海はなぜ高野山に寺を建てたのか?〜】

私は、いつも不思議に思っていた

「空海はなぜあの地に寺を建てたのか?」

比叡山などは、よく分かるが高野山は今ひとつピンとこなかった。

「丹」の一文字でその理由にたどり着いた。

「丹生都比売神社」名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味しているのです。

「丹生都比売神社」は、古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。

【高野山】

▶弘法大師・空海が高野山金剛峯寺を開いたのは、

地主神たる「丹生都比売神社」がその神領を譲ったことによると伝えられている。

丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。(丹生都比売神社HPより)

▶弘法大師ゆかりの寺院(丹生山神宮寺)で「丹生大師」

奈良の大仏に渡金するため用いられた水銀は三重県多気郡勢和村丹生付近は辰砂の採掘の中心地で、主にこの地の辰砂から精製された水銀が用いられたようです。

この地域には,無数の採掘跡だけでなく,地名や神社・寺院などに,丹や水銀にまつわる様々な痕跡が残されており、紀伊半島には,現在でも50以上もの丹生神社が残っています。その丹生の中心に建っているのが、弘法大師ゆかりの寺院(丹生山神宮寺)で「丹生大師」と呼ばれている。

▶空海は少年の日、

吉野で修行をしている。その時に見つけた「平原の幽地」を「高野」と名付けた。大峰奥駈道をたどったのである。

▶空海は24歳で

『聾瞽指帰(ろうこしき)』を完成させ、ここに「日雄」の名が登場する。「我が国の日雄という人は『睡覚記』を著述した」と記されている。「日雄」は離宮と寺院の名前であり、天武天皇によって下賜された姓でもある。空海の時代、吉野山の日雄寺には日雄を名のる僧が住んでいて、空海はそこで修行に励んだという。

▶空海は

讃岐国(香川県)多 度郡の郡司,佐伯氏の出身。『常陸国風土記』が「山の佐伯、野の佐伯」は土蜘蛛(国栖くず)を指すと述べている。空海も土蜘蛛(鉱山技術者)の一族である。

▶金剛峰寺は

大水銀鉱脈の上に立地している。(日雄で鉱脈発見の方法を知ったのか)

空海は留学生として中国に渡った時、20年分の費用を砂金で携えていた。この砂金は、吉野との関わりからだと推測する。

▶空海は「佐伯真魚」という名前で、

真魚とは鯛のこと。この名前からも海人との関係があるのだろうという。

(前田良一「役小角」参考)

【なぜ水銀が必要なのか】

「水銀」=「朱」古代人は、真っ赤な色をよみがえりの色として神聖視した。

古墳の内部を真っ赤に彩色したり、遺骨を赤く塗るのは、死者が蘇るのを願ったからである。

朱色は、歴史的に中国では高貴さの象徴とされ、歳月によって変色や消滅しないため黄金の不変色と同様、不老不死を希求する人たちに瑞祥の色として愛用された。

朱の色は自然界の辰砂(硫化水銀)によるものであり、古代の宮殿や神社仏閣に多く用いられ、魔力に対抗する色ともされていて、朱の原材料は水銀=丹です。

これは昔から木材の防腐剤として使われてきた。

朱色は生命の躍動を現すとともに、古来災厄を防ぐ色としても重視されてきました。このため古くは御殿や神社の社殿などに多く用いられており、稲荷神社の鳥居の朱色もこの影響

空海=丹=水銀⇒朱

稲荷=多宝塔⇒朱

海人=修験道=山伏⇒朱

やはり「朱」の「丹生都比売神社」丹生氏がその神領を譲ったのだ。

▶谷有二氏の解説に

「地中の埋蔵鉱物は、空の星が降って地の中で育つと信じられた時代があっ た。

そこで北極星、つまり妙見が鉱山師の信仰を受けるようになったらしい。

▶錬金術

葛洪は『抱朴子』「金丹篇」で、丹砂を加熱すると硫化水銀が還元されて水銀を生じ、水銀に硫黄を反応させるとまた丹砂に還るという循環的過程に永遠性を見出し、これを不老不死と結びつけている。

なお、水銀が丹砂に還ると葛洪が述べているのは、丹砂に似た色を呈する酸化水銀への変化とも言われる。酸化水銀は、水銀を空気中で沸点近くまで熱することにより得られ、これをさらに高い温度まで加熱すると水銀と酸素に分解する。古人にはこの過程が、丹砂が水銀へ、水銀が丹砂へと何度でも変化し、元に戻るかのように観察されたと考えられる。

金丹には水銀化合物や砒素化合物が含まれ、強い毒性があったと考えられる。煉丹術の流行により水銀や水銀化合物を服用して逆に命を縮める人が後を絶たなかった。少なくとも6人の唐の皇帝が水銀中毒で死亡したことが清代の趙翼の著『二十二史箚記』巻19新旧唐書 唐諸帝多餌丹薬に述べられている。不老不死を望んでいた秦の始皇帝もそれによって死期を早めたという説もある。

こうしたこともあってか、宋代には鉱物性の丹薬を作る外丹術は衰退し、唐代より次第に重んじられるようになった内丹術が主流となった。

【内丹術】

内丹術は、水銀を直接使用して化学的に丹を作るのではなく、天地万物の構成要素である「気」を養うことで、自己の身中に神秘的な霊薬である「内丹」を作り、身心を変容させて、道(タオ)との合一を目指す、性命を内側から鍛練する。

修煉の基本原理は、身体を火を起こす炉(かまど)に見立て、丹田を鼎(なべ)とし、意識と呼吸をふいごにして、精・気・神(広義の気)を原料(薬物)として投入することで、内丹を作り出すことにある。

修煉理論は、古代から研究されてきた気の養生術を、易経の宇宙論と陰陽五行の複合的シンボリズムと中国医学の身体理論に基づき、外丹術の術語を借りて、総合してできあがったものと考えられる。

この内丹は、身体を強健にし、生命力を高め、身心に潜在する力を開発し、不老長生、心を統御し、智慧の果を得て、運命を超克することで、道を体現することを可能とする。

⇒これらの、中国の錬丹術(不死の薬を作る秘術)のテキストに説く錬金術の理論と実践は、古代の本に極めて早くから持ち込まれてきていてる。

奈良時代の知識人たちは、もちろんこの事を知っていました。

空海の時代になると、仏教 儒教 道教を学び、空海が24歳、処女作『聾瞽指帰』を書いた事は知られています。さらにそれを再編して『三教指帰』には、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されています。

しかし、古代からの「朱」の地に深く関わった空海は、道教的仏教色が強い密教が、修験道という「火の信仰」「呪術的信仰」を1200年経った今も日本に残している。

▶修験道の行場となったのは、

そこに豊富な鉱物資源が得られた事にほかならない。吉野・熊野そして伊勢の山間もそうであった。丹生という地名や丹生神を祀る神社は、水銀鉱床がある。

紀伊半島は最大の辰砂の産地で、中央構造線を挟んで,紀伊半島には,現在でも50以上もの丹生神社が残っている。

空海は、伊勢神宮の鬼門を守る寺「金剛證寺」や伊勢皇大神宮(伊勢神宮内宮)の祠官を世襲した荒木田氏が、天照大神にお経を捧げるために建立したと 伝わるお寺「田宮寺」を中興している。


http://www.joy.hi-ho.ne.jp/firstspace/dekigoto48.2018.5-8.html#%E8%BE%B0%E7%A0%82%E3%81%A8%E7%A9%BA%E6%B5%B7

【[辰砂と空海】  より

君は「辰砂(しんしゃ)」だとか、表題には書かなかったが「丹生(にう)」だとか、そういう言葉を知っているだろうか?

鉱石=鉱物質の名前である。

中国由来の名前らしいが、日本でも産出される。邪馬台国の時代から採られているという。三重県多気町(たきちょう)、奈良県宇陀市(うだし)菟田野(うたの)、四国になるが吉野川上流などで採れたし、現在では大分、熊本、奈良、徳島などで産出している。

多気町や宇陀市、それに吉野川上流などというと、すぐに思い浮かぶのが中央構造線である。九州、四国、紀伊半島、中部、関東と日本列島を貫いている大断層である。多気町や宇陀市はその周辺にある。吉野川などは、中央構造線の真上だ。

「辰砂」とは、どんな鉱石かというと、

赤い石である。その赤が顔料にもなるし、(たぶん今は使われないだろうが)漢方薬の原料にもなる。それだけではなく、水銀の原料になるのだ。この石に熱を加えると水銀を抽出できる。水銀自体、昔、不老不死や防腐剤にもなっていた。

さて、空海である。空海も辰砂=水銀の鉱脈を探し求めたという。見つけて採掘すると、それを売ったらしい。売った相手は中国である。つまり空海は「山師」だった、ということが出来るのである。意外な発見だった。少し空海に対する印象が変わった。

空海の時代の前も、山岳宗教はあった。修験道である。役小角(えんのおづぬ)など有名だが、修験道も、上記で書いたことを思えば、やはり、山師=鉱山技師のプロフェッショナル集団だったのかも知れない。山岳修行と同じ情熱を持って金の鉱脈などを探し求めていた可能性はある。

  

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)というのが、高野山からみれば北西に、紀の川まで行かないところにある。「丹」は朱砂(辰砂)のことで、その鉱石の採掘に携わった人々によって祭られた神社だというのだ。高野山や空海と関係がある。

空海が開いたという高野山も、地下には辰砂の鉱脈があるのかも知れない。

四国も「辰砂」の鉱脈がいっぱいありそうである。空海率いる山師集団は、吉野川や石鎚山あたりを中心に四国中を探索しまくったに違いない。

さて、「辰砂」、「丹生」などという、これまで知らなかった言葉を提供してくれたのは、テレビ番組である。TBS 世界ふしぎ発見  2018年 2月24日放送 「超人 空海 唐留学の謎に迫る!」。 番組の内容が衝撃的だったので、少し調べさせてもらったということだ。


http://ohmura-study.net/621.html  【古 来 の 技・ア マ ル ガ ム 鍍 金

伝統技法 | 軍刀 | 軍刀について | 軍刀制定勅令類 | 軍刀金具細部 | 軍刀金具と色】

金属の弱点の克服と美の付加

 紀元前の遙かな古代、人類は自然界に存在する酸化鉄から鉄の精製に成功した。この鉄は人類の文化を大きく変える事になった。

 只、鉄は、空気の酸化作用で直ぐに赤錆びを生じ、ぼろぼろに朽ち果てて再び自然界に還ってしまうという宿命を持っていた。

 この現象は、程度の差はあるが、銅・真鍮・アルミ等の他の金属も同様であった。

 古代人は、金属腐食を防ぐ為、金属表面と大気を遮断する為に金属表面を大気に侵され難い物質で覆う方法を考え出した。

 古代人の英知に驚く外はない。

鍍 金 (メッキ)

 紀元前1,500年、メソポタニアで錫(すず)メッキが出現した。これの工業化は3,000年後の17世紀になってからである。

 中央アジアのスキタイ王国(紀元前700年~250年頃)から、銅表面に金メッキした工芸品が出土している。

 このメッキは水銀アマルガム法(化学メッキ)である。

 アマルガム (amalgam) は、水銀と他の金属との合金の総称である。

 水銀は他の金属との合金を作り易い性質があり、又、常温で液体になる合金が多い為、ギリシャ語で「軟らかい塊(かたま)り」を意味する malagma から名がついた。

 黄金(金)は貴重な物質だったが、耐候・耐蝕性に優れている事を古代人は知っていた。美観上も重宝された。

 従って貴重品・仏像・工芸品メッキには主として金が用いられた。

 「メッキ」という言葉は純粋な日本語である。

 日本のメッキ技術は古墳時代(4世紀~)、大陸からの帰化工人に依ってもたらされた。

 水銀中で金や銀の塊が溶解して原型を留めなくなるアマルガムは「金が滅する」、即ち「減金(めっき)」と呼ばれた。

 後世に「鍍金」(金を渡す)という漢字を使う様になったが、戦後の当用漢字から外された為に近年は「メッキ」と書く。

 水銀に金を溶解したアマルガムを被メッキ体に塗り、加熱して水銀のみを蒸発させ金を付着させる焼着法である。

 江戸時代のメッキ処理は大陸から伝播した技術を継承していたが、幕末には、既に西洋の化学処方を習得している。

 焼着法に加えて浸漬法メッキが登場。

 金属の前処理の錆びや、汚れ落としの藁や梅酢に替わり、硝酸液洗浄や工程の随所に西洋の化学知識が取り入れられ始めた。

 電気メッキの技術も輸入されて実際に使われている。

 面白い事に、メッキに「格式」があって、武士階級,仏教関係,一般雑貨の3段階のメッキ分野に分れていた。

 

  主要材料の箔は「極上品質は大焼貫と称し,刀剣の飾りメッキに使う。

  次は仏師箔と称し,仏像や仏具のメッキに使う。

  その次は江戸色と称して錺(かざり)屋が一般のメッキに使う」

 と区分してある。

 

 焼着法による金,銀メッキは明治時代の終わり迄、鍍金師や飾り職人の手で刀剣・仏具・装飾品に施された。 

 現在のメッキの主流である電気メッキは、1805年にドイツのブルグナーテリが、ボルタ電池を使って、銀のメダルに金の電気メッ

キをしたのが始まりとされる。

 日本では50年遅れて,幕末の薩摩藩で鎧金具に電気メッキを施したのが最初とされている。

 古来のアマルガム焼着法は、明治中期以後、急速に姿を消していく。水銀蒸気が猛毒であった事が原因する。

 この電気メッキ法が日本で工業化されたのは大正3年の頃である。

 この他、現代では無電解メッキ、溶融メッキ、真空蒸着メッキ等、目的に依り多彩なメッキ手法が存在する。

 水銀アマルガムでは、金以外に銀や錫等の物質も使うが、漢字は何故か「減金(めっき)」や「鍍金」を当てている。

 「金」が金属腐食の保護に優れ、且つ、視覚美観で尊重されていた為に主流であった事が窺える。

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陸軍新軍刀(九四式・九八式) 金具の材質

 鍔、菊座、タテシノ = 真鍮(黄銅)鋳造製。菊座、タテシノ、小刻み、目貫 = 真鍮板打ち抜き製

 兜金・縁・口金物・佩鐶・責金物・石突 = 素銅(すあか)鋳造製。

   ※ 外装会社に依り各々の製法・材質に相違がある

石と賢治のミュージアム(公式)@ishitokenji

『宝石の国展』展示標本

辰砂②

大きな結晶はありませんが、

作中のシンシャと同じように毒液(水銀)を出しています。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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