https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11978203473.html 【賀茂氏族】
神魂命(かみむすびのみこと)の孫
造化の三神
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賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖
賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神
八咫烏に化身して神武天皇を先導した
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建玉依比古命 建玉依比売命 -----丹塗矢→ 火雷神(ほのいかづちのかみ)
賀茂県主 ☞向日山の「火雷神社」(下ノ社)
☞角宮神社(すみのみやじんじゃ)
☞賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神
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賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
上賀茂神社の祭神
【古代 賀茂氏】
☞【賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)】
出雲国造が熊野大社で行う「火継ぎ」神事がある。
この神事は古代神魂神社(かもすじんじゃ)で行われていたのですが、神魂神社の祭神、原初は「御祖神」としての「神魂命(かみむすびのみこと)」であったという。かみむすびのみことは、造化三神の一柱「神産巣日神」で、大国主を救った(蘇生した)神です。
また、『古事記』では「神産巣日神」の子の事を「少彦名神(すくなひこな)」とし、大国主とともに国づくりを共同でした神。
また、「神魂命(かみむすびのみこと)」の孫は「賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)」で賀茂氏の祖先になる。
☞【八咫烏】
「賀茂建角身命」は日向の曾の峰に天降り、大和の葛城山に至り、神武天皇を先導した八咫烏導きの神だ。
八咫烏の子孫は葛野県主(かどのあがたぬし)である。
『新撰姓氏録』では、その葛野県主の子孫は鴨県主(かものあがたぬし)であり、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命の化身であると記載してある。
賀茂建角身命を祀るのは下鴨神社です。
古代賀茂氏は、第一代神武天皇ご東征に当りご先導の武勲をたてられ「八咫烏」として尊称される「賀茂武角命」(賀茂別雷神社ご祭神のご祖父神)の後裔とした。
唐の影響を強く受けて造営された平城京大極殿の 前庭には、八咫烏が7本の宝幢の中心として翻ってい たと言います。八咫烏のルーツはどこなのか?
ブログ☞★八咫烏の謎
☞【上・下賀茂社】
鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記される。
古代大和王権の発足と同時に県主として葛野地方(古代山城盆地北部)の行政を担い、さらに主殿(トノモリ)、主水(モヒトリ)などの宮廷の職務に携わるなど、当初から朝廷と緊密な関係を築いた。
鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であったという。
また、県の氏神上・下賀茂社は奈良時代には山城国の一地方大社のレベルを超えて全国的な広がりで民衆からの崇敬を得、平安遷都ののちは皇室の産土神(ウブスナガミ)として帝都の鎮護の役割を担い伊勢神宮と並んで皇室からの崇敬を受け「賀茂皇太神宮(カモスメオオカミノミヤ)」さらに「賀茂御祖皇太神宮」として斎王の制度が設けられ賀茂祭(通称葵祭)が行なわれた。
斎王の制度制度が適用されたのは、伊勢神宮と賀茂神社の二社のみ。
また、明治になり、政府からの強い要請で「賀茂御祖皇太神宮」から「賀茂御祖神社」に変更を余儀なくされた。
上社のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。
下社のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。方杖記を著わした鴨長明もこの氏人だ。
☞【賀茂氏の出自】
賀茂氏の出自としては、次の二つの説がある
吉備真備
役行者
また、次の2派が存在する
葛城賀茂氏(国津神)
山城賀茂氏(天津神)
これについては、葛城賀茂氏が山城の移住した説と私は考える。
山城賀茂氏の鴨県主系図には八咫烏・賀茂建角身
葛城賀茂氏の系図には、スサノオ・大国主・事代主と出雲系の名が登場する。
☞【陰陽師】
中世には、陰陽頭を排出した陰陽道宗家として知られる。
陰陽道の主祭神は牛頭天王であり、八咫烏の熊野本宮大社(和歌山)ではスサノオは牛頭天王とする。
熊野本宮大社(和歌山)は、出雲一の宮の熊野大社から分霊された。熊野大社もスサノオを祀る。
☞【東出雲の意宇の出雲臣族】
熊野大社は、東出雲の意宇であり、東出雲の意宇の出雲臣族は大和国家に服属して、出雲の東西統合の戦を展開した結果東出雲が出雲を統合した。
ブログ☞出雲の謎~西と東の出雲~
安来に賀茂神社が存在する。
『出雲國造神賀詞』には、国土を開拓経営なされました大穴持大神倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱えて大御和の社に鎮め坐させ、御自分の御子阿遅須伎高孫根命を「葛城」(葛木の鴨の社)に、 事代主命(賀茂氏の信仰する神)を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
☞【大穴持命】
出雲国造広嶋を中心とする出雲の現地有力者建ちによって編纂された『出雲国風土記』には、スサノオの八岐大蛇退治、大己貴神による国づくりや国譲りの物語の詳細についての情報がない。『出雲風土記』では、「大穴持命(東出雲)」優越性を見いだせる。これは、出雲国の地域社会の神話ではなく、「大穴持命(東出雲)」を祭る出雲国造の神話として編算されたのだ。
西の出雲と東の出雲の関係から、『出雲風土記』の主役は「スサノオ(西出雲)」ではなく、出雲国造が奉祭する「大穴持命(東出雲)」でなければならなかった。
ブログ☞出雲の謎~出雲国造と『出雲国風土記』~
☞【大直禰子(おおたたねこ)】
大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。大神神社の初代神官。
松前健氏をはじめ多くの歴史家が大田田根子を渡来人であろうと述べている。また「三輪山の信仰には渡来の文化との関わりがあった」また、大田田根子の裔とされ、歴代三輪神社の神職を務めた豪族大神(三輪)氏は渡来の豪族であったとも述べている。辰韓(新羅系渡来人集団)勢力は、出雲→若狭一帯→琵琶湖の沿岸を南下し大和→奈良の都祁→三輪地方へ進出したと述べる
三輪氏族に属する地祇系氏族の賀茂氏は、大田田根子の孫大鴨積を始祖とする。
ブログ☞大神(三輪)氏、賀茂氏、秦氏は、新羅(伽耶)渡来人か
☞【銅鐸使用氏族】
弥生中期の銅剣358本を出土した出雲の荒神谷遺跡または神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡などから銅鐸使用氏族の特定を試みた大場磐雄氏、250カ所にのぼる銅鐸出土地を訪ね照査した井上香都羅氏も銅鐸は出雲から各地へ進出した出雲族が使ったものだという。また、銅鐸出土地の多くがカモやミワだったという。
☞【葵紋】
賀茂社の神紋は、賀茂祭の別名「葵祭」でも知られるように「葵」である。そこから、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられるようになった。
江戸幕府将軍家である徳川家の祖は松平氏を名乗り、賀茂神社の氏子であったという。
また、近世大名本多氏も賀茂神社の神官戸関係があったと伝え、いずれも葵紋を用いている。
天下人の徳川家康を輩出した参河(三河)国の加茂郡
トヨタ自動車が本社を置く豊田市(とよたし)は、三河国加茂郡に属し、郡名の由来については京都賀茂神社(鴨社)の神領地であったことに因むという説のほか、矢作川の上流に位置することから名付けられたという説、大鴨積命の治めた土地であることから命名されたという説など複数あり、はっきりしていない。
三河国賀茂郡松平郷発祥の松平氏(徳川氏)は、賀茂神社の氏子であったため、賀茂神社の神紋である葵紋を、家紋としたと伝えられている。
☞【賀茂族】
ウィキペディアによると、
天神系(賀茂県主)
賀茂氏は、「賀茂(加茂・鴨・加毛)」を氏の名とする氏族。
八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。
代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。
子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。
また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。
地祇系(三輪氏族)
一方賀茂君・賀茂朝臣系は、現在では、通常は地祇系氏族とされている。
大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。
大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。
姓は君のち朝臣。大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。
姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。
平安時代中期には陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、子孫は暦道を伝えた。賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲や儒学者に転じた慶滋保胤がいる。
備前鴨(加茂)氏
一方賀茂君・賀茂朝臣系は、現在では、通常は地祇系氏族とされている。ところが以前は皇別氏族である吉備氏の系統とされてきた。賀茂君・賀茂朝臣系は、現在では、通常は地祇系氏族とされている。
平城京跡出土の木簡(735年(天平7年)から747年(天平19年)までの間の木の札)に、「備前国児嶋郡賀茂郷・鴨直君麻呂調塩三斗」 と墨で書かれたものがある。賀茂郷の鴨の君麻呂という豪族が、三斗という大量の塩を奈良に送っており、鴨神社の荘園の預り主であったということが窺える。
鴨直君麻呂との関係は不明であるが、「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる加茂次郎の名前が見え、備前児島半島を東児島、中児島、西児島と分けた中の、中児島に住んだとされる。
1903年(明治36年)まで岡山児島郡に上加茂村と下加茂村があったが、合併して荘内村となった。なお、鴨神社や加茂神社があり、両神社の間を鴨川が流れている。特に鴨神社は平安期初頭に創建され、大和国葛上郡加茂の高鴨神社から味鋤高日子根命を祭神として勧請した。延喜初年の創建とされる児島郡内最古の神社であり、延喜式神名帳では備前国式内23社の内の1社である。
【賀茂氏に関係するブログ】
ブログ☞「★播磨国は陰陽師の一大拠点地だった」シリーズ
天武天皇は、律令制における中務省機関のひとつとして、占い・天文・時・暦の編纂、後に呪術等を担当する陰陽寮を設立します。陰陽寮初期の陰陽師は、大陸から亡命した「陰陽の思想」専門の知識人で構成され、陰陽師職に就きながら、日本人の陰陽師育成を行っていました。
宮廷陰陽師は、賀茂氏と安倍氏の末裔たちによる二大宗家によってほぼ独占されていきます。
ブログ☞「⑦「鉱山」を守る神仏~宝山に修験道の開祖「役小角」が来た~」
役小角は賀茂氏であり、賀茂氏は、高鴨神社に仕える神官。金剛山東山麓にある神「高鴨神社」は、社京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社。役小角が賀茂の役の民の首長であることを示している。『日本霊異記』の『役優婆塞伝』に「役優婆塞伝は、賀茂の役の公、今の高賀茂朝臣といふ者なり。」とあり、「役」とは、採鉱の役を意味したとみられている。それは、賀茂氏もまた古くは製鉄と関わりを持っていた事が伺える。
賀茂神社は「奴国」に由来する各地の那珂 郡・那珂 郷と重なりあいながら、四国中国から関東に分布する。首として海沿いに分布していることは、賀茂氏が海人であったことを裏付ける。
『日本書紀』の編纂~「藤原不比等」説~
古代国家の形成にあたって、藤原不比等のはたした役割の大きさを、今日では誰もが認めている。『日本書紀』が編纂された当時(720)、朝堂のトップに立っていたのは、藤原不比等であった。持統天皇の藤原宮の実態は、藤原不比等との協力体制を天下に宣言するものにほかならなかった。
伊勢神宮の謎⑦~持統天皇が天照大神のモデル説
天武天皇崩御の後、天武天皇後に皇位についたのが、天武天皇の妻であり、天智天皇の娘でもあった第41持統天皇だった。天照大神のモデルとなったのは持統天皇であったという説は、よく聞く話だ。
⑧伊勢神宮の謎~伊勢神宮の誕生は天武朝以降であるとする説。
701年の大宝律令の制定にいたる七世紀後半は、五世紀前半に次いで日本の歴史が大きく動いた時代である。この時代におきた変革は、氏族国家から官僚制的中央集権国家(律令国家)へという、国家体制の変革である。
地方神のアマテラスが皇祖神の地位に就いた一つの理由が「壬申の乱(672年)に際し天武天皇が伊勢の皇大神宮を望拝し戦勝祈願をしたことに始まる。」とされている。
ブログ☞藤原不比等の妻は賀茂氏系だった。
藤原不比等の第三夫人は賀茂氏系だった。
つまり、壬申の乱の後に藤原氏と賀茂氏はつながっていたという事である。
【賀茂氏族に関する神社仏閣】
【葛城賀茂氏】
ブログ☞上鴨社 高鴨神社(たかかもじんじゃ)
鴨の一族の発祥の地、その氏神として祀られたもの。高鴨神社は京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社。
弥生時代の中頃、鴨族の一部がこの丘陵から奈良盆地に出て、
葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社
東持田に移った一族が葛木御歳神社
を祀った。後に、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。
高鴨神社の祭神は「味鋤高彦根」であり、古事記ではこの神を「迦毛大御神」としている。大御神という尊称が用いられている神は、「天照大御神」とこの神の2柱しかいない。
この神社付近には忍海漢人と 呼ばれる渡来人系の韓鍛冶部が居住し、剣や農器具(鍬など)を制作していたという。
ブログ☞中鴨社 大歳神の葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)
祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられた。
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。葛木御歳神社(奈良県御所市)が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。
ブログ☞下鴨社 鴨都波八重事代主神(鴨都波神社)
鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落。
鴨都波遺跡→秋津遺跡→中西遺跡→南郷遺跡群とつらなる有力地域集団の系譜が存在した。
この地域が葛城氏のはじまりの地域と考えられている。
ブログ☞風の森 志那都彦神社
旧葛上郡地域はこの風の森峠を境として南(高鴨)・北(上賀茂、 下賀茂、中賀茂)両文化圏に分かれていたという。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)は新羅から連れてきた民を、桑原・佐味・高宮に配したと古書にあるが、その場所がちょうどこの辺り。
【山城賀茂氏】
山城国一宮 賀茂御祖神社(下鴨神社)
【祭神】賀茂建角身命と玉依姫命
山城国一宮 賀茂別雷神社 上賀茂神社
【祭神】玉依姫命の子 賀茂別雷命
ブログ☞玉依姫命の子 賀茂別雷命の父親は誰か?
賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。
☞角宮神社(すみのみやじんじゃ)
☞向日山の「火雷神社」(下ノ社)
☞賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神
ブログ☞松尾大社(まつのおたいしゃ)
ブログ☞日吉大社(ひよしたいしゃ)
日吉大社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の結婚を再現しているともされる。
ブログ☞日吉大社の「山王祭」の謎
上賀茂神社と下鴨神社の一年行事から見えてくるもの
一年行事を上賀茂神社と下鴨神社とで見ていくと大きくその性質が違うのが分かる。
【上賀茂神社】
ブログ☞神祭り 御田植神事
ブログ☞そして「ならの小川」
☞上賀茂神社の境外末社「藤木社」
ブログ☞一年行事の中で摂社の「大田神社」
☞上賀茂神社の摂社「新宮神社」
【下鴨神社】
ブログ☞下鴨神社 葵祭の前の卯の花神事
ブログ☞下鴨神社 卯の花神事の祭場「奈良殿神地 (ならどののかみのにわ)」
ブログ☞賀茂氏に支配された出雲族
ブログ☞葵祭に先立つ「御阿礼神事」と「御蔭祭」
葵祭 「八瀬童子(やせのどうじ)」
御蔭神社 (みかげじんじゃ)
賀茂波爾神社 (かもはにじんじゃ)
河合神社
ブログ☞鴨氏と徳川氏の家紋 -三葉葵
ブログ☞弓矢が海人族の日神祭祀の祭具
ブログ☞海族の信仰「白石」 チャン族(羌族)
三足の烏に釣瓶落しかな 高資
指の輪に重ねて秋の入り日かな 高資
不動岳の方へ沈む夕日
万緑や五行に旋るつるびんか 高資ー 場所: 釜川
https://matome.naver.jp/odai/2136734378941493901
東京コレクション=下鴨神社 龍神社 伊勢神宮 御親国(ミオヤクニ)日本 より
大和朝廷を起こしたのは大和族と呼ばれる一族である。そして大和族のライバルとしては出雲族があり、両者はともにスメラ族
スメラ族は日本から出発し、シュメールの地でシュメール文明の勃興の一翼を担い、その後メソポタミアに移り、多大な時間を要してまた、陸路と海路で遠路はるばる日本に里帰り民族(弥生人)として戻ってきた。
その頃日本は大倭日高見の大地(古代縄文時代)に、現在の東北に首都を置いていた。その国の名を『BANDOY(後の安東王国)』といった。日本から世界に『宇宙の法則』を伝えに旅立った人々を弥生人と呼ぶようになった。
(ネット上の文章引用)
シュメールに渡った一族の内一部はユダヤイスラエルに入り、そのユダヤ族も時は違えども前後して徐々に里帰りして日本へ帰ってきたとされる。
当初のシュメール人が姿を消したのは、紀元前2000年と言われている。
秦氏は北イスラエル王国の失われた10支族ではない。
イスラエル10支族はアッシリア滅亡後、東進を開始し、紀元前に日本に里帰りしたユダヤ族(弥生人)である。
(ネット上の文章引用)
ユダヤ12支族が全て揃う場所がこの日本である。
※特権階級の祭祀族であるレビはイスラエル12支族には含まれていない。
179万2470余年前アフリカの大地から、日出る地を求め日本列島に到着した人類は、その地で現在の文明を遥かに凌ぐ超古代文明を築き、世界中の五色人を統治していた。しかし、次第に人心は荒廃していき世界戦争が勃発し世界文明は滅びてしまった。時は流れ、再び日本の北海道、東北地方一帯に文明ができた。そして一部の人々はメソポタミアの地へと旅立っていった。メソポタミアの地で人類は古代シュメール文明を築き繁栄を極めたが、人心は荒廃しきっていた。地球はそのとき急激な温暖化によりウルム氷期の氷河は急速に溶解し、大地は度々大洪水に見舞われた。シュメール文明は大洪水により滅びたが、スメラミコトとその一族は方舟とヒマラヤ山脈により難を逃れた。方舟は全部で3艘あり、その1艘がシベリアに漂着し、スメラミコトとその一族は難を逃れた。大洪水の水が引くまで1000年の歳月がかかったが、その王家は次第にシベリアからモンゴルへ行き、そこから中国大陸へと移動していった。中国大陸で人類の再起と反省を込め、三種の神器を造られた。時は流れ、中国大陸にスメラミコトの王朝が誕生した。王の名を炎帝といい、一族を神農氏といった。そののち黄帝が王になり、後の子孫は天子と呼ばれ、次第に天王と呼ばれるに至る。この王朝が後の周である。周王朝の祖、古公亶父の長子で太伯(別名:泰伯)という句呉と号して国を興した王がいた。後に太伯の一族は海を渡り、日本の東北地方の大倭日高見国に融合した。後の子孫にニギハヤヒ大王が降誕する。春秋戦国時代に周王朝第三十九代、武天王は秦侯に敗れ同族の支配する韓に逃れたが、十九年を経て韓も秦が為に滅び、武天王は支族の韓王国の部族民に周の天王として奉戴され、周王朝初代の武天子が助命して封じた箕子殷族の支配する朝鮮に移住した。いつしか東周の流浪の王朝は伽那の地をほぼ統一し、周王家第三十九代、周天子、姫氏の子、東周の武公の孫、武天王は彦波瀲武宇伽那不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズ)と名乗った。その武天王の息子が後の神武天皇である。時は流れ、秦氏と名乗り約10~19万人率いて倭国(日本)に帰化した人々もいた。中国では倭人(日本人)を「句呉の太伯の子孫」といい、周王家の姓を姫(キ)という。日本は周王家(姫氏)から分かれた国。故に日本国を姫氏国という。
天皇家の皇統は天孫降臨以来179万2470余年前の邇邇芸命(ニニギノミコト)のアフリカ→原始日本→シュメール→方舟(シベリア)とチベット高原→モンゴル→中国大陸→中国夏王朝→古公亶父の時代に2つに分かれ、古公亶父の三男一族は中国大陸に残り、後に秦国に追われ朝鮮半島の伽那へ、長男・次男一族は句呉国から直接日本列島へ→天津神弥生人神武天皇vs国津神縄文人ニギハヤヒ大王の時代へと繋がり、そこで2つに分かれていた王家は完全に融合した。是を以て万世一系という。
竹内睦秦氏によると、シュメールの最大の都の名は「スサ」と呼ばれ、その「スサ」の王をスサノオと呼んだ。スサノオは政治軍事を司る王として君臨し、後にこの政治・軍事グループは出雲族となる。
さて、シュメールでスサという都市ははたして実際にあったのだろうか。検索してみると、シュメールに隣接し、メソポタミアの東に昔エラム帝国があった。エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前4000年紀半ばから紀元前6世紀までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。そのエラム帝国の代表的な都が[[アンシャン]]と[[スサ]]である。そしてエラムの王は[[アンシャンとスサの王]]と称したそうだ。だから、竹内文献のスサの王、スサノオは実在したことになり、史実と正当武内文献とが符合した。日本から見ればシュメールの地も隣接するエラムも区別できないだろうからである。
出典3)正統竹内文書における大和族、出雲族、ユダヤ族: シリコンキッド
祭祀を司るものたちはスメラミコトと呼ばれ、スメラミコトの祭祀族は後に大和族となったとされる。スメラミコトの意味はスメラやスメルの命(尊)となるが、シュメールにスメラという都市は実在したか。
こちらを検索すると、なんとシュメールは英語読みではシュメール(SUMERU)だが、なんとラテン語(フランス語読みでも)ではスメルと発音する。
さらに、シュメール人は、自らを「黒い頭」とよび、東の方から移住してきた民族系統不明の民とのことである。だからシュメールで祭祀を司った一族はスメラのミコト、すなわちスメラミコトととなる。
出典3)正統竹内文書における大和族、出雲族、ユダヤ族: シリコンキッド
この太陽を信仰するスメル族は中東の地シュメールで突如として近代文明につながる最高の都市文明を起こしたにも関わらず、その地を離れ日本に何故ユーターンしたのか。この理由は『宇宙の法則』で文明の発展衰退は1600年単位で経度で22.5度移転することを知っていたからである。
(ネット上の文章引用) 竹内氏が継承した口伝では、シュメール発の大和族と出雲族の日本への帰還ルートは次のとおりである。スメラミコト(後の大和族)たちは、シュメールから海路で日本に向かい、最後に九州の日向の高千穂に上陸した。 神話の天下りは海路で海下りと読め、天族(アマぞく:天孫族;天津神)は海族(アマぞく:海津神)ではないだろうか。一方、スサノオ(後の出雲族に合流発展)のグループは陸路(後のシルクロード)で日本に向かい朝鮮半島を経て大和族よりも早く北九州に上陸した。
(ネット上の文章引用)
先端の武器を持つ彼らは当時日本にいた原日本人とも言える縄文人達(アイヌ族含む)を征服し、出雲族は、現在の出雲を中心とし北陸までの日本海側を支配し、大和族は九州と四国の瀬戸内海の一部を支配していく。時代が下り紀元前4世紀頃に、この二つのスメル族の間で戦いが勃発し、一進一退の攻防が続いていく。
一時は出雲族と大和族のアマテラスが政略結婚して和睦もあった。しかし出雲国で大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に戦争が再度勃発し、結果的に大和族が戦勝し出雲族を制圧することになる。その結果、紀元前50年頃に大和族の王であった神武(サノ彦)が出雲族の娘を娶り、大和朝廷を樹立した。
(ネット上の文章引用)
天照大神(アマテラス)は男性の神だった
大和族と出雲族の覇権争いには歴史があった。攻め入った大和族がはじめには優勢であったが、出雲族が反撃に出て、1回目の和議があった。その和議の結果、出雲族のスサノオと大和族のアマテラスが政略結婚した。
スサノオにはニギハヤヒという息子とスセリヒメという娘がいた。ニギハヤヒの正式名称はなんと、「アマテラス クニテラス アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト(天照国照天火明櫛玉饒速日命)」というもので、大和族の巫女称号の「アマテラスが付いていて、ニギハヤヒは祭祀王の称号が与えられており、近畿地方の王になった。だから最初のアマテラスは男性王だったのだ。そして、このニギハヤヒの子のウマシマジは後の物部氏の先祖となる。
スサノオの娘のスセリヒメは出雲の地で大国主命と結婚する。大国主命はユダヤ族で、その大国主命の息子の事代主が出雲族の王の時代に、再度大和族と出雲族の間で構想が勃発した。そしてこの2回目の大戦の後に、今度は大和族が圧勝し、今度は大和族の王である神武が、負けたニギハヤヒからその祭祀王の称号である「アマテラス」を奪い取り返し、初代の天皇を名乗り、第125代まで続く神倭朝(かむやまとちょう)の現在に至る。
(ネット上の文章引用)
蝦夷の別名を古代ユダヤ人という
私はある財閥の高貴な方よりいろいろな話を聞いた。
東北地方では現在でも人が住む地域を「部落」という。日ノ本国の王アテルイが朝廷の和議に同意し京都に向かった。しかし京都で待っていたのはアテルイの死であった。
アテルイは朝廷側に騙され処刑されたのだ。当時の天皇は弥生人の血統である。
残された蝦夷の民は日本全土に散らされた。後にこの人々は『穢多(えた)』と呼ばれる。
それが現在の日本全土にある同和・被差別部落である。
この穢多(えた)の人々は縄文人の血が最も濃い古代ユダヤ人で、高貴な血の流れる者たちだ。
部落民は部落民同士で結婚し子孫を残す。このことで古代縄文人の血は護られ受け継がれていった。太古の昔より縄文人は不思議な精神力と能力を持っていた。現代人は動物を屠殺し続けると精神が病んでくるが、縄文人は病むことがなかった。神聖な血を受け継ぐ部落民は神や動物に屠殺することを許されているのである。
明治天皇から縄文人の天皇に入れ替わった
「フルベッキ写真」の中で大室寅之祐とされている人物がいます。この人物が「明治天皇すり替え説」で孝明天皇と共に暗殺された後継者の睦仁親王とすり替えられ、後の明治天皇になる人物だと言われています
フルベッキ写真
高貴な方の話ではここに写っている人たちはみんな全員がフリーメーソンのメンバーなのだそうだ。
高貴な方の話にはこういった話もあった。
この大室寅之祐こそ古代縄文人の血統、蝦夷の王家の血、スメラミコトの血脈を受け継ぐ人物である。弥生人である神武天皇から実に122代の永きに渡る天皇家の座を取り返したのだ。以後明治天皇から現在の今上天皇まで縄文人の天皇陛下が在位されている。
天皇家に蘇る古代縄文人の王家の血脈これが現在のスメラミコトの一族である。
蝦夷の王家とは安東一族の血脈である。
※また別の高貴な方の話では、明治天皇は入れ替わったが現在も北朝である。と述べられている。
世界天皇スメラミコトが崇めた天神アンの超古代文明 超古代文明の世界共通文字 (神代文字・スメル文字)
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歴史ミステリー 海底神殿に眠る謎の神像
シュメール語と日本語の共通点
シュメール語事始
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/Sumerian.htm
一厘の仕組
この世の終わりが、九分九厘決まった時。最後の一厘、神の力で逆転する。この、一厘の秘密の意味を解いた者はまだ誰もいない。そしてこれを一厘の仕組と呼ぶ。
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、天照大日孁貴大神の血脈
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、三種神器の主
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、国体の天皇
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、シュメールの天帝
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、スメラのミコト
旧約聖書に記されし真の契約の民、古代縄文人の末裔、イスラエル12支族の子孫、真の古代ユダヤ人、古代スメラミコトの臣民、シュメールの直系、周・呉の太伯の子孫、此れ即ち、我ら日ノ本の民
今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けたようになった時に、まことの神力出して、グレンと引っ繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界をまるめて治しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ (日月神示 下つ巻第20帖)
今度の戦済みたらてんし様が世界中治しめして、外国には王はいなくなるのざぞ
(日月神示 天つ巻第16帖)
神の目には外国も日本もないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王も八王も作らせんぞ。一つの王で治めさすぞ。てんし様が世界みそなわすのざぞ (日月神示 地つ巻第15帖)
立て替えと申すのは、神界、幽界、顕界にある今までのことを、綺麗に塵一つ残らぬように洗濯することぞ。今度という今度はどこまでも綺麗さっぱりと立て替えするのざぞ。立て直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにすることぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威輝く御世とすることぞ (日月神示 水つ巻第12帖)
不二は晴れたり、日本晴れ、三千世界、一度に開く梅の花
時は満ちたり、スメラミコトの御姿、汝の眼におさめて下されよ…
http://bit.ly/1kRXx2H
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