秦氏とその周辺

コンパスと定規に秋の日影かな  高資ー 場所: グラバー邸

Wikiでは「上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と物質など世界の二元性の融和を表現している」とありました。

九字切って色なき風を結びけり  五島高資ー 場所: 清浄華院

コメントのやり取り

たまに九字を切ります。九字の印契を結んだりもします。


清浄華院さんとは師壇関係が無いので詳しくは無いのですが、泣き不動さんのお話は有名ですね阿倍晴明さんが祀られているのは知りませんでした今度拝んで来たいとおもいます。


五島高資 浄土宗なのに密教や陰陽道が修されています。不思議ですね。近くには、三宝清荒神尊が祀られている護浄院もありますね。


中山 慧一 元々宮内にあって皇室や公家に関係の深い寺院ですからね下賜される前の歴史も有りますし密教や陰陽道も有りなのでしょうね常施寺さんは御所巽の守護を委された勅願寺ですね光格天皇の胞衣塚にも詣られましたか渋いところ押さえていらっしゃいますね流石です❗


「コンパスと定規」で連想するのはピタゴラス密教団。

https://www.youtube.com/watch/?v=eny0x1qhVQw  

【2+3=結婚、√2=抹殺…!? 実在した「ピタゴラス教団」の狂気!!】

https://inri.client.jp/hexagon/floorA7F/_floorA7F_pythagoras.html

【「ピタゴラス教団」の謎】

ピタゴラスの哲学の根底にあったのは「神秘主義的哲学」・グノーシスです。

グノーシスでよく知られているのがミトラ教

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99#/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3_%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A4%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

【ミトラ教】

ミトラ教またはミトラス教またはミスラス教(英語: Mithraism)は、古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教(英語版)である。

ミトラス教は古代のインド・イランに共通するミスラ神(ミトラ)の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前1世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。ローマ帝国治下で1世紀より4世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。

近代になってフランツ・キュモン(英語版)が初めてミトラス教に関する総合的な研究を行い、ミトラス教の小アジア起源説を唱えたが、現在ではキュモンの学説は支持されていない。

概要

ミトラス教は牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教(英語版)である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。信者組織は7つの位階を持つ(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。また、入信には試練をともなう入信式があった。

ミトラス教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが[1]、ローマ帝国で確認されるミトラス教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。しかしミトラス教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。

(略)

弥勒信仰および マイトレーヤ信仰との関係

ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったと考えられ[41]、クシャーナ朝での太陽神ミイロは、のちの未来仏弥勒の形成に影響を及ぼす[42]。ミイロの神格は太陽神であるということ以外不明であるが、定方晟はマニ教の影響なども考慮して、救世主的側面があったのではないかと推測している。[要出典]

松本文三郎の仮説では、このような比較神話学および比較言語学の系統分析によって、ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたとする


弥勒菩薩で有名なのが広隆寺の弥勒菩薩・そして広隆寺は秦氏の氏寺、真言宗系単立。

広隆寺 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/広隆寺 - キャッシュ

広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺

下のブログには古代中国ではローマ帝国を「大秦国」と呼んでいること、雅楽で有名な東儀氏は秦氏から出ていることからも、ローマ人を祖としていること、そして まとめには古代渡来人・秦氏は天皇家、島津家にも繋がる大一族と紹介しています。

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html 

【空海の秘密 秦氏との関わり2/4】

https://blog.goo.ne.jp/siroi_1956/e/b4d111caadf3948e7c5cffb2f3cf2ac4

【渡来人として日本にやって来た秦氏は始皇帝の子孫!? 或いはユダヤ人だった!?】


グノーシスのシンボルマークは丸十字 島津家の家紋も丸十字 高野山の宿坊 恵光院,

・・・

もしかして秦氏はイスラエルの失われた12部族ということでしょうか??

https://ameblo.jp/prconsultant701938830/entry-12163319508.html

【日本語ユダヤ起源説⑬ユダヤ由来の苗字と地名】

また丸十字は カタカムナ文字とも重なります。

第一首には「アシアトウアン」という名が出ています。

清浄華院の句「九字切って色なき風を結びけり  五島高資: 」は争いあったアシアトウアンと天孫族が一つに祀られていることを暗示します。


保久良神社 - パワースポット研究所

ookuni.info/27_hyougo/011.php - キャッシュ

ご利益. カタカムナ伝説のもとになったのは陰陽師・安倍晴明伝説。以下、両者の類似点。 アシアトウアン(カタカムナの神を祀っていた神官)は芦屋道満。 アシアトウアンと天孫族との争いは、芦屋道満と安倍晴明との争い。 ドロガエシの沼から出てきた金の玉、


https://trakl.exblog.jp/17526965/  【空海の秘密 秦氏との関わり2/4】

空海と秦氏について凄く詳しく書かれているサイトを見つけました。

豊前の秦王国についてもたくさん描かれています。

長いですが、大切なので是非読んでくださいね♪

エンサイクロメディア空海より 

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html

「空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」

弘法大師空海の生涯には終始、東アジアの渡来系氏族との関係が色濃くあった。従来の空海伝(とくに仏教学系のもの)は、古代の日本と東アジアの文明交流史 に関心が薄く、空海と東アジアの渡来系氏族のかかわりについてあまり言わないのだが、空海の出自から仏教修学や山林修行、さらに入唐留学や帰国後の活動、 また高野山の造営や東寺の密教化や潅漑用水・港湾の修築まで、その生い立ちや行動のかげには、4~6世紀、朝鮮半島や中国などから渡来し、農耕・土木・養 蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術で富を築き、経済力を背景にヤマト王権以降の朝廷や西日本各地の地方豪族に大き な影響力をもった渡来系氏族のサポートがあった。また空海には、彼らがもたらした宗教が日本化するかたちで陰に陽に影響を与えている。

  空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦(はた)氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった藤原 氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自の阿刀(安斗、阿斗、安刀、安都、あと)氏、そして高野山麓の丹生(にう)氏など との縁も無視できない。

 

◆秦氏

◇秦氏のルーツ

  秦氏は、『日本書紀』によると、応神14年の条に、弓月君(ゆづきのきみ)という人が百済から120県の民を連れてきて帰化したことが記され、平安初期の 古代氏族名鑑『新撰姓氏録』には、応神14年、秦始皇帝の5代あとの孫融通王(弓月王)が、127県の百姓を率いて帰化したことを伝えている。秦氏はこの 弓月君をもって祖とするという。

 秦氏のルーツには、中国春秋時代に滅んだ呉・越の流浪の民である(越出身の者は銅の生成に優れる)とか、秦始皇帝にさかのぼるなど諸説あるが、新羅あるいは加羅(百済と新羅の間にあった朝鮮半島南部の国、伽耶ともいう)だという説が有力といわれている。

 秦氏のルーツ説に関して興味深いのは、かの「日ユ(日本・ユダヤ)同祖論」を提起した佐伯好郎博士の「弓月」国ルーツ説および秦氏=ユダヤ人景教徒説である。

  「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、1~2世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、中国語でクンユエとい われる。クンユエには「ヤマトゥ」(「神の民」の意)という地名があり、「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。この「弓月」国の民が、実は景教徒、 すなわち空海が留学先の長安で見聞したはずの大秦寺の、あるいは華厳・密典・サンスクリットの師般若三蔵に聞いたはずの、ネストリウス派キリスト教の信徒 たちであったという。

 ネストリウス派は、431年エフェソス公会議で異端とされ、ローマからシリア・ペルシャへ、そしてシルクロードを経て中国に流浪するのだが、ユダヤ教の色彩が濃く、「弓月」国の景教徒は古い頃イスラエルを追われた初期のユダヤ系キリスト教徒ではないかともいわれている。

  空海は、このネストリウス派のキリスト教を長安の大秦寺(大秦寺の旧名は「波斯(経)寺」で、「波斯」とはペルシャを意味し、「大秦」はローマ帝国をい う)で見聞し、般若三蔵からその大秦寺の僧景浄(アダム)を紹介されていたはずである。般若は、その景浄と胡本(ソグド語版)の『六波羅蜜(多)経』を漢 訳し、それが不備であったため、のちに梵本(サンスクリット版)から再度訳出した。空海はこの漢訳を般若三蔵の原本から書写したのであろう、長安から持ち かえって『御請来目録』に載せている(『大乗理趣六波羅蜜(多)経』)。

 景浄は、唐の長安にネストリウス派のキリスト教が布教さ れていたことを石碑に書いて残している。空海がそれを見ていたかどうかは不明だが、今、西安市の碑林博物館に安置されている大秦景教流行碑がそれである。 そしてそのレプリカが、明治時代、『弘法大師と景教の関係』を著したイギリス人のE・A・ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられている。

秦氏とユダヤ教・イスラエルの関係について、もう一つ興味深いのは、秦氏の根拠地となった山背国(山城、今の京都)の太秦に秦河勝が建てた氏寺広隆寺があ り、それに隣接してある秦氏ゆかりの通称「蚕の社」(木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)境内の湧水「元糺の池」のなかに建つ 「三柱鳥居」(みはしらとりい)の三角形がユダヤ教やユダヤ民族のシンボルである「ダビデの星」に同じで、しかもその三角形は広隆寺を中心に東南東の稲荷 山(伏見稲荷大社)、西南の松尾山(松尾大社)、そして北の双ヶ丘を指している、という説がある。この三所はいずれも秦氏の重要な聖地である。

◇豊前の「秦王国」と水銀鉱脈

  秦氏の祖先はおそらく、九州の筑前(那ノ津、今の博多)から入ったであろう。『隋書』倭国伝にいわれる「秦王国」(豊前(今の福岡県南部から大分県にまた がる地域)が有力)は最初に秦氏が定住していた地にちがいない。そこにはまた、中央構造線に沿うかたちで水銀の鉱脈が走っていて、同じ頃丹生氏も肥前から この地に移住してきていたといわれている。

 この「秦王国」にはまた、後述する八幡神や弥勒や虚空蔵の信仰など、新羅に発する諸信仰の事蹟がある。

 その後、秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背(山城)に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出した。

  そのうち讃岐では、空海の出自である佐伯氏領する多度郡真野(まんの)の東方の中讃地域に居住した。この地は、空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採 り入れられていた。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものであろう。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に 溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。讃岐佐伯氏の本家筋にあたる佐伯直のいた播磨にも同様の水田開発がみられる。赤穂で は製塩や船運が秦氏によってはじめられたという。

 この讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。

◇秦氏の神「八幡神」

 ところで、空海の母の「阿古屋(あこや)」を「玉依(たまより)姫」と尊称する。

  「玉依(タマヨリ)」は神の名で、玉依毘売命・玉依日売命(タマヨリヒメノミコト)・活玉依毘売命(イキタマヨリヒメノミコト)であり、海神(ワタツミノ カミ)の娘・豊玉姫命(トヨタマノヒメノミコト)の妹である。吉野の水分(みくまり)神社や京都の下鴨神社は祭神としてこの「玉依(姫)」を祀っている。

 また「タマヨリ」は、「霊依(タマヨリ)」であり、「憑依」「魂憑」、すなわち神霊神威が依り憑くこと。「ヒメ」はその依り憑く巫女、あるいは乙女の意味である。

 さらに「玉依(姫)」には子供を産む女性特有の能力が強く反映されている。神話の「海幸彦・山幸彦」に出てくる綿津見大神(海神、ワタツミノカミ)の娘の例はこの代表的な事例である。

 「タマヨリ」の女性は神との婚姻による処女懐胎によって神の子を身ごもったり、選ばれて神の妻となったりする。そのような巫女的霊能のある女性を「玉依」と呼ぶことがある。

  空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという(仏母院に伝わる空海誕生伝説)。この八幡社は、 多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神(うぶすなかみ)であっ た。秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶 の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主 祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。

 さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。

ある説によれば、この土地に秦氏系の渡来氏族辛嶋 (からしま)氏があって、新羅からきてこの地の河原に住んだという「香(鹿)春」(かはる、かわら)の神を奉じ、その神とともに宇佐郡に移って定着し、そ の「香春神」にヤマト王権の使いできた大神比義(おおみわ(九州では、おおが)のひぎ)が応神天皇の霊を付与して「ヤハタの神」(=香春八幡神)としたと いう。

 香春神とは辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)。「辛国」(からくに)は加羅の国。すなわち加 羅から渡来した神である。辛国息長大姫大目命を祀る香春神社(辛国息長大姫大目神社)は、古来銅の産出で有名な香春岳の山麓にある。ほかに忍骨命(おしほ ねの)・豊比売命(とよひめのみこと)を祀る。息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命について諸説あるが、ともに整合性のある説ではない。「香春」(かはる) はもともと「カル」。「カル」は、金属とくに銅のことである。

 「辛嶋」(からしま)とは「日本の加羅(秦の国)」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権(蘇我馬子)の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」(=香春八幡神)にチェンジさせたのである。

『八幡宇佐宮御託宣集』に、辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、吾ハ日本ノ神トナレリとある。

 大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる(豊後大神氏)。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地(豊後)に移っていた。

 この「ヤハタの神」(=香春八幡神)が何度かの移座を経て神亀2年(725)、現在の宇佐小倉(椋)山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。

  ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯(御許山)から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が 主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏(と大神氏)によって日本の 国神(くにがみ)「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出 兵させられている。

 「ヤハタ」の意味には史家の間に諸説ある。しかし、「ヤ」(八)は「弥」で、 数が多いこと、幾重にも重なる様のこと。「ハタ」(幡)は「幟」「旗」で、神々が降臨する依り代。つまり「ヤハタ」とは「数多くの幡(が幾重にも重なって 風になびく)」の意味で、祭祀の際に降臨する神の依り代として何本も立てる幡、と考えるのが妥当だろう。韓国で祭祀の際に数多くの旗が並び立てられる例が あるのに符合する。

◇秦氏のシャーマニズム、山岳信仰と弥勒信仰

 ミルチ ア・エリアーデの言葉を借りるまでもなく、古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところである。日本で言う「巫」の周辺 では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していた。

 「秦王国」といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫(とよくにのくしかむなぎ)や豊国法師といったシャーマンが活躍していた。

 『日本書紀』の用明天皇2年4月2日条には、用明天皇の病気に際し、皇弟皇子がこの豊国法師を呼んで内裏に入れたところ、物部守屋大連が反対して怒ったことが書かれている。

  わが国への仏教公伝は、宣化天皇3年(538)と欽明天皇13年(552)の二説(538説が有力)あるが、崇仏派天皇だった用明天皇が三宝(仏・法・ 僧)への帰依を表明しつつも、周囲の薦めで秦氏系の法師(仏教僧ではない)が内裏に招き入れられた記述から、百済系の仏教を容認したヤマト王権(蘇我氏、 用明・聖徳太子)がシャーマンのもつ病魔除け呪術や医薬品の効能に期待し、豊前(秦系・新羅系)の高度な文化や医術の情報をすでにキャッチしていたことが 読みとれる。

 その「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わってい た。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎(ふぁらん)と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱 脈を探索するために山に入り、洞窟(=穴)などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨(憑依)することか ら、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。

 豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩 薩の浄土(兜率天)内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧(辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・ 虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当)と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を 落としていた。

この秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝(はたのかわかつ)が建てた蜂岡寺(後の広隆寺)の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。

  余談ながら、秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡やシャーマニズムから想い起されるのは、神護景雲3年(769)に起きた宇佐八幡宮神託事件とその主役の道 鏡の雑密呪術である。道鏡は大和の葛城山に篭り、雑密の宿曜法に習熟したという。葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、役行者以前から豊前の英彦山 の山岳修行と同系の山中篭行が行われていた。かれは山中篭行を行うなかで、すでに日本に伝えられていた雑密系の修法を身につけたのであろう。当時としては 新しい雑密呪術を駆使して度々霊験を顕わしたのか、天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を与えられたのである。かれは女帝孝謙上皇(後に重祚して称徳天 皇)の看病禅師として宮中に出仕し、雑密呪術を以て上皇の病気を治し妖僧とまでいわれた。

 上皇の信頼を得た彼は、「藤原仲麻呂の乱」を経て、復位した称徳天皇の側近となり、天平神護元年には僧侶でありながら太政大臣となり、翌年法王の座に上りつめ、朝廷の実権をにぎった。

  神護景雲3年(769)、兄道鏡の栄達とともに出世の道を急速に進んだ実弟で、大宰帥(大宰府の長官)大納言弓削浄人(ゆげのきよひと)と、大宰主神(だ ざいのかんずかさ、大宰府の神祇長官)だった(中臣)習宜阿曽麻呂((なかとみの)すげのあそまろ)が道鏡を皇位につけることをもくろみ、道鏡を皇位につ けることが神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を朝廷に奏上した。宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し側近の女官であった和気広虫(わけのひろむし、出家して法 均)を派遣するよう求めたが、からだが弱かったため代りに弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。

 ところが、大神の禰宜・辛嶋勝与 曽女(からしまのすぐりよそめ)への託宣で、道鏡を皇位につける神託は偽りだということがわかり、清麻呂は帰ってそれを称徳に報告すると、道鏡を皇位に就 けたかった称徳は怒り、清麻呂を改名までさせて大隈国へ配流してしまった。その翌年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権勢は急速に衰え、やがて下野国の薬師寺 へ左遷され没した。

 秦氏は技術力・開発力・経済力・宗教文化によって大きな富と権勢を得、その隠 然たる力をもって朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、徹底して政権の表舞台には立たなかった。同系の山岳信仰をもつ氏族として道鏡の栄華と失脚を他山の石 として見ていたのかもしれない。渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で非業の死を遂げた人材が数々あった。分をわきまえることに敏だったのだろう。

◇秦氏の虚空蔵信仰

  先に述べた辛嶋氏の本拠地辛嶋郷に宇佐地方で最初に建てられた仏教寺院を虚空蔵寺といった。7世紀末、白鳳時代に辛嶋氏と宇佐氏によって創建され、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったという。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられた。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺はこ の虚空蔵寺を改名したものである。

 虚空蔵寺の寺名になぜ虚空蔵菩薩の名が用いられたかは謎であるが、秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があった。

 まず、虚空蔵寺の別当に任じられた法蓮という花郎(ふぁらん)であるが、このシャーマンは7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学び、先に述べた「秦王国」の霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術に長じていたという。

 唯識(法相)に虚空蔵三昧が説かれることはあまり知られていないが、日想観を修していた法蓮が山中の洞窟で虚空蔵菩薩のシンボルたる金星(太白)を観想する占星巫術を行っていたとしてもおかしくはない。

  医術に長けていたとは、おそらくその巫術と関係があり、医術とはつまり毉術(不老長寿の道術)のことで、石薬(鉱物系の医薬)の生成とその巫術的使用を指 すのであろう。法蓮という僧は、道教系雑密の毉術に長けたシャーマンであり、同時に常世の行者として金星(虚空蔵菩薩)を観想する仏教僧だったと思われ る。虚空蔵寺の名は、宇佐の里にはじめて宇宙の仏が降臨したことを隠喩したのかもしれない。

 飛鳥 時代すでに、斑鳩の法興寺(飛鳥寺、後に元興寺)には虚空蔵菩薩があって、7世紀には大和の地に居住する渡来人たち(秦氏・東漢氏ら)、とくに製銅・製 鉄・鍛冶・冶金あるいは養蚕・織物・漆製造・漆工芸を職能とする技術者の間で虚空蔵信仰があったことが知られている。

 宇佐地方でも同じことがいえるであろう。豊前地方に展開した秦氏が養蚕・織物・漆製造・漆工芸の技術に長けていたことは言うまでもない。

  まず養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞(こくそ)といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生(擬死再生)を 三度くりかえすので(不老不死の)常世虫といい、それが常世の神(蚕神(かいこがみ))として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、 蚕(常世虫)と常世の神(蚕神)と虚空蔵菩薩は一体となったのである。

 豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。

 また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎(こくそ、木粉を漆に混ぜたもの)と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。

  『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記 述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。 そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。

  宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造 (ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

  京都嵯峨(嵐山)に行基が建立した葛井寺(ふじいでら)に、貞観16年(874)、虚空蔵菩薩を祀って寺を再興し、寺名を法輪寺に改めたのは讃岐国香川郡 の秦氏を出自とする道昌であった。道昌は空海の同郷の弟子である。法輪寺のある一帯は、ほど近い太秦を本拠地とする秦氏の勢力圏であった。道昌は、秦氏が 5世紀後半に桂川に築造した葛野大堰の後を受けて承和年間に大堰川の堤防を改修し、承和3年(836)には太秦広隆寺の別当となっている。爾来、法輪寺は 漆寺といわれるようになり、漆工職の信仰を集めることになった。

 余談ながら、嵯峨(嵐山)の法輪寺から南に下ると秦氏一族の氏神 (大山咋神(おおやまくいのかみ)=松尾山の神)を祀る京都最古の神社松尾大社がある。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみき、とり)が社殿を建 立し、松尾山山頂の磐座(いわくら)から神霊を移したのが開基である。

 秦氏は酒の醸造技術ももたらした。中世以降秦氏に由来する醸造祖神として、杜氏など酒づくりに携わる人たちから敬われるようになった。

◇秦氏の勤操・護命と空海の虚空蔵求聞持法

 若き日の空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは、空海にとって公私にわたる大外護者ともいうべき大安寺の勤操であり、実質的な恩師ともいうべき元興寺の護命であったが、この二人ともに出自は秦氏である。

 このうち勤操は大和国高市郡の出身で、大和国高市郡といえばその当時河内地方にかけて、渡来人(秦氏・東漢(やまとのあや)氏・東文(やまとのふみ)氏)などの一大居住地であった。

  余談ながら、高市郡に所在する久米寺で『大日経』を空海が感得する話にも勤操や渡来系の仏教僧が関与しているかもしれない。また、空海が碑銘を書いた大和 益田池も久米寺南方の高市の地にある。益田池の修築になぜ空海がかかわったか。秦氏のもつ潅漑土木技術を思わないわけにはいかない。

 護命は美濃の秦氏出身である。当時秦氏は、伊勢・尾張・美濃そして北陸地方にも勢力を伸ばしていた。護命は空海が祝いの詩を送ったくらいの長寿をであったが、勤操と生きた年代がほぼ一致する同時代の人である。


太陽神は色々な名で崇められています。

http://taiyoushinngaku.my.coocan.jp/page010.html

【1. 神話に登場する太陽神〈中近東編〉】


丸十字も エジプトにもグノーシスにもシンボリックに用いられていたことがわかります。

https://ameblo.jp/agnes99/entry-12240777782.html

【丸十字と「わたしはアルファであり、オメガである」】  より

【田】という漢字を説明するには、鹿児島市章、照国神社でも使用されている≪丸十字≫について説明する必要があります。

≪八咫烏と闇の権力と第三次世界大戦(中丸薫×飛鳥昭雄)≫より

(飛鳥氏)

けん玉には大変な意味がありまして。けん玉の姿というのは、実は「アンク十字」なんです。いま日本の子供たちが持って遊んでいるんです。こんなことをやっているのは日本人だけですよ(笑)。



エジプトのアンク十字

この形のものを「アマカス」といって、「天童」と書きます。『お天道様(お日様=太陽)が見ているよ』(悪いことをしてはダメだよ)という戒めの言葉がありますが、本当は、お天道様ではなく、天童様の意味なんです。


天皇家ではお世継ぎが生まれると、枕元に必ずアマカスを置いて、その隣の部屋で弓をピーンと鳴らす儀式をやります。この儀式がとても重要なんです。

アンク十字というのは、要は丸と十字で『〇=初め』『十=終わり』を表しているんです。

(中丸氏)

なるほど。新約聖書の「ヨハネの黙示録」で、『わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である』とイエスが言っているけど、あのことね。

(飛鳥氏)

そうです。イエス・キリストのことです。

『わたしはアルファであり、オメガである。最初の者として、最後の者。初めであり、終わりである』(ヨハネの黙示録第22章13節)という部分ですね。

天皇家は象徴として、イエス・キリストの儀式をやっているんですね。それが一般庶民にまで伝わってけん玉遊びに発展したということです。

けん玉が本格的にヒトガタになるのは明治以降で、明治政府による陰陽寮(おんみょうりょう)廃止により、多くの陰陽師が野に下ったことと関係があるのではないかと個人的に思っています。(引用終了)

「弥勒の神の御紋章」から拝借

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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