袋小路から抜け出す

コメントのやり取り

鶺鴒のようです。階段の踊り場に迷い込んだようです。すぐに外へ脱出できました。良かったです!!


エックハルト・トールの言葉たち@POWEROFNOWTolle

苦しみの度合いは、自分がどれくらい「いま、この瞬間」に抵抗しているかに比例しています。これは同時に、どれだけ自分が思考とひとつになっているかを知るバロメーターでもあります。

〜「超シンプルなさとり方」(p98)より〜


一指李承憲@ILCHIjp

悲しいときは悲しみましょう。それを恐れないでください。うれしいときは喜びましょう。そのとき、私たちは最も自分らしくなれます。ただし、ひとつの感情に長く執着するのはよくありません。「感情は私ではなく私のもの」です。感情に流されるのではなく、波乗りのように感情に乗る練習が必要です。


https://www.xhimiko.com/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F%E3%81%AF%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA

越前・邪馬台国から出現した謎の大王 継体天皇

近畿・狗奴国を征服して滅亡させると同時に、様々な最新文明をもたらしました。そして、それら多くは渡来人たちの活躍によってなされています。

有力な家臣の一人、蘇我氏も渡来人だったと見られます。

継体天皇即位後の、六世紀~七世紀に朝廷の最重要ポストにいた蘇我一族について、検証しました。

蘇我氏の先祖は、越前・敦賀の神功皇后(卑弥呼)

日本書紀によると、蘇我氏は、神功皇后の三韓征伐などで活躍した人物を、祖としています。勇猛な武者だった武内宿禰(たけのうちのすくね)という神話の人物で、中央有力豪族の多くが彼の子孫とされています。神話の話とはいえ、元々、朝鮮半島で武勇を挙げた人物が先祖とされています。

 神功皇后は、卑弥呼をモデルにした人物で、越前・敦賀を拠点として活躍した女傑です。蘇我氏の祖先が卑弥呼の家臣という事で、朝鮮半島から出現しているのは興味深いです。


蘇我氏は、継体天皇と共に黄金期を迎えた。

近畿での、具体的な活動が記述されるのは六世紀中頃の蘇我稲目からで、継体天皇が近畿を制圧してからです。

蘇我稲目は、継体天皇の息子たちの時代、宣化天皇→欽明天皇に仕える朝廷の重臣として表舞台に現れています。

さらに、蘇我稲目の息子・蘇我馬子、孫・蘇我蝦夷は、継体天皇の曾孫の聖徳太子と共に、律令国家・中央集権国家体制を整えました。これらの時代から、蘇我入鹿が藤原氏一族に殺害されるまでが、蘇我氏の最盛期となります。また、飛鳥時代末期の壬申の乱では、蘇我氏が完全に没落すると共に、それまでの歴史書が焼失しました。そして、古事記・日本書紀という、藤原氏に都合の良い歴史書が編纂される事になります。

 一方、継体天皇が越前にいた時代の重臣もまた、蘇我一族だったようです。

越前の三国に国造が置かれ、蘇我氏一族の若長足尼(わかながのすくね)がその任にあたっていたとされています。


蘇我氏は、越前・邪馬台国の若長足尼を祖とする。

 この三国という地は、越前・福井平野を流れる九頭竜川が日本海へ流れ出る場所で、海洋交易の最重要拠点です。

 また、大伴金村らが男大迹王を招聘する為に越前に来た際にも、その窓口として対応したのが、この若長足尼(わかながのすくね)です。

神功皇后・卑弥呼の時代から、継体天皇の時代まで、蘇我一族が越前の主要豪族だった事は間違いなさそうです。


蘇我氏は、渡来技術で朝廷の主要な地位についた。

蘇我氏が渡来人であったかどうかは諸説ありますが、渡来系の氏族と深い関係にあったのは間違いないようです。継体天皇が近畿を征服した際に、渡来人の技術者集団を引き連れており、それらの領袖の役割だったと見られています。

当時の最新鋭の技術として、越前・今庄の製紙技術、近江の製鉄技術、河内の馬の生産技術などです。

この渡来人たちの先進技術が蘇我氏一族が台頭する一助になったと考えられています。

また、継体天皇の有力豪族の中で、明らかに渡来人である秦氏がいます。秦氏は若狭の国の豪族で、近江の製鉄技術に深く関わり、蘇我氏との密接な関係もあります。

これらのことから、蘇我氏もまた渡来人である可能性は高いのではないでしょうか。

蘇我氏は、継体天皇と共に台頭し、権力を握りました。そして、大伴氏や物部氏などの、譜代の豪族を失脚させて、筆頭豪族となりました。

しかし七世紀に、越前系の蘇我氏が、九州系の政敵・藤原氏に失脚・滅亡させられました。

これが、越前・邪馬台国を歴史から抹消させられた原因では?

いずれ、歴史書に邪馬台国が記されていない理由についても、検証して行くつもりです。


http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index6.html

蘇我氏(秦氏:新羅系)と藤原氏(百済系)の戦い

最近まで日本の権力を握っていたのは、藤原氏であった。

藤原氏のルーツは、百済王子・豊璋(中臣鎌足)とされている。

660年に唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたので、豊璋は帰国できなくなったという。

668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされて、帰国できなくなった高麗 若光の境遇とよく似ている。

一方、蘇我氏ルーツは、神功皇后の愛人とされる超人・武内宿禰(住吉大神)である。 武内宿禰は、360歳まで生きたとされている。

渡来人の持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられているので、 蘇我氏が、秦氏の系統であることは間違いないと思われる。

武内宿禰(住吉大神)は、新羅から来たから、 神功皇后は、新羅が好きでたまらなかった。 秦氏は新羅経由でアッシリアからはるばる日本に来たのだろう。

とすると、日本の古代史とは、藤原氏(百済系)が蘇我氏(秦氏系=新羅系)を制覇(歴史から抹消)した歴史になる。

藤原氏(百済系)の天下は、つい最近まで続いたから、秦氏は目立たないように暮らす必要があった訳だ。

藤原氏(百済系)が作った日本書記に秦氏の記述が少なく、蘇我氏のことはボロクソに書いているのも頷けるのだ。


秦氏は、常に海から来る

秦氏は、常に海から来て、その地の開発に着手した。

秦氏の常套パターンは、海から来て先ず、その地の見晴らしのいい山に登るのである。

そして、見晴らしのいい山に神社を作るのである。 なぜかと言えば、将来、この山を観光地にするのである。

見晴らしのいい山に神社を観光地にすれば、毎年、人が集まり、 秦氏が得意な薬や生糸などを販売できるからである。

今の自民党のように高速道路を作って、観光地を破壊し、 その工事費用とその利権で儲けようと言うドカチンの貧弱な発想とは全く違うのである。

秦氏は、先ず大磯に上陸した。いきなり湘南海岸とは、流石に目の付け所がいい。

秦氏は、チェーン店(神社)を作る

秦氏は、見晴らしのいい山に登ったら、次のチェーン店(神社)をどこにするかを考える。 人工衛星も地図もない時代であるから、自分でいい場所を探すしかない。

このようにして、秦氏の作ったチェーン店(神社)は、どんどん増えて言った。 チェーン店(神社)の名前は、八幡神社であったり、稲荷神社であったりするが、大きな違いはない。

大きな神社の近くには、常設の大きな店ができただろうし、小さな神社の近くにはモバイル型の屋台の店ができた。

電車がある訳ではなかったが、風光明媚な山と神社には、毎年リピータが来てくれた。 薬など毎年補充しなければならないものを買うためでもあった。

つまり、神社とは人を集めるための建築物であり、 観光地としてのステータスを保つために、その周りの自然は保存された。

秦氏は、先ず高麗神社と大山阿夫利神社を作った

秦氏は、先ず大磯に目を付けて上陸した後、高麗山に登った。そして高麗神社を作った。

野蛮で知的レベルの低い明治政府の廃仏毀釈により、高麗神社の大半は破壊された。

いまでも野蛮で知的レベルの低い自民党が高速道路作りで各地の神社や風景を破壊し続けている。 きっとバチが当たるぞ。

高麗山に登ったら、北の方に丹沢の大山が見えた筈だ。 そこで、次に金目川を遡り、秦野と大山に神社を作った。

そして、丹沢の大山に登り、次のチェーン店(神社)をどこにするか決めた。 多分、海老名あたりに目を付けたのではないだろうか。

海老名は、当時は小田急も相鉄線も相模線もなかったが、小高い丘があったので、 湿地帯ばかりだった平地より人が快適に住むことができた。

大磯に上陸した秦氏

高麗 若光の大磯上陸

666年に高句麗の使者として来日した高麗 若光(こまのじゃっこう)は、 668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った(日本書記)。

703年(大宝3年)には、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、従五位下に叙された(続日本紀)。

そして、716年(霊亀2年)に武蔵国(東山道)に高麗郡が設置された際に、 都より同郡に下って郡司となったという(高麗神社の社伝等)。

その時、若光一族は、海路で都より東海道沖を航海し、大磯に上陸した。 それ以降、若光一族の一部は、神奈川の地に残り、この地を開拓した。

若光一族は、大磯に上陸した訳だから、大磯の傍を流れる金目川沿いに住んだのであろう。 金目川とは「韓メ川」のことで、朝鮮人の住む集落を流れる川という意味である。

従って、金目川が「韓川=神奈川」の語源になったことは間違いない。

金目川の上流は秦野であるから、朝鮮人の住む集落は大磯から秦野まで続いていた。 秦野と言う地名からして、朝鮮人の住む集落らしい名前である、

金目川の上流である秦野の中心地は、秦野CCの近くの実朝公首塚のある波多野城付近であった。

高麗 若光は秦氏か

問題は、高麗 若光は秦氏かどうかと言うことである、

蘇我氏のルーツとされる百済王子・豊璋(中臣鎌足)は、 660年に唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたので、帰国できなくなったという。

大磯に上陸した高麗 若光も、668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされて、 帰国できなくなったと言う。

この二人の境遇も年代も良く似ているが、出身が百済と高句麗と言う違いがある。

百済と高句麗は、660年と668年というほぼ同時期に滅亡した。

一方、秦氏は新羅系とされるので、百済も高句麗も秦氏と対立関係にあった。

しかし、特に新羅と百済は犬猿の仲であり、鋭い対立関係にあったとされる。

乙巳の変(蘇我入鹿を中大兄皇子や中臣鎌足らが暗殺)

そうすると、百済王子の豊璋(中臣鎌足)と新羅系の蘇我氏(秦氏)の間も 鋭い対立関係にあったに違いない。

この対立関係が、622年4月8日の聖徳太子の死後23年経った645年6月12日の乙巳の変 (蘇我入鹿を中大兄皇子や中臣鎌足らが暗殺)を生んだ。

この年に、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日したのだ。 三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。

中大兄皇子と中臣鎌足らはこれを好機として暗殺の実行を決めた。 (大織冠伝には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)

同席していた古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰ったが、このとき皇子は 「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」と述べたという。

つまり、古人大兄皇子は「韓人=百済王子の豊璋(中臣鎌足)が鞍作(入鹿)を殺した!」と叫んだ訳だ。

中大兄皇子と言う暴力団の人殺し専門家のような人間と韓人(中臣鎌足)が組んで、 名門の蘇我入鹿を相手にクーデタを実施した訳だ。

百済と高句麗の滅亡

660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻めた。

百済王はいったん王都の泗詫城(しひじょう)から旧都の熊津城にのがれたが、降伏して百済は滅亡した。

百済の滅亡後も、664年まで、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。

661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、 高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、 唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。

唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。

666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、 高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅びた。

赤穂に上陸した秦氏

坂越浦に上陸

兵庫県赤穂市にある瀬戸内海の入り江・坂越(さこし)は、 瀬戸内海の海上交通の要地として栄えた。

坂越は新羅から渡来した秦氏が上陸した場所といわれるところである。

播磨国赤穂郡は近世入浜塩田発祥の地として有名であるが、 このあたりは秦氏の勢力が強く及んだ地域である。

塩田技術も秦氏が伝えたものであろう。

そして秦氏の一族には奈良時代に塩田開発をしたと思われる者もある。

また赤穂郡内には秦河勝や秦酒公を祭る大避神社がいくつもあって、 秦河勝をはじめ秦氏にまつわる伝承もすくなくない。

東儀家と雅楽

東儀家は1300年以上も雅楽を世襲の仕事としてきた楽家(がっけ)で、 その祖は聖徳太子の参謀だった秦河勝(はたのかわかつ)である。

帰化人であった秦河勝は、多くの大陸の文化を伝え、 定着させた人物で、文化人でも政治家でもあった。

聖徳太子が世を去ったあと、京都太秦を本拠地としていた河勝は、 蘇我氏の迫害をさけ、兵庫県の瀬戸内海に面した坂越という地にたどり着き、 80余年の一生を終えたとされる。

坂越にある大避神社では、毎年10月12日に大きな祭りが行われている。

10月12日というのは秦河勝の命日と伝えられている。

雅楽にまつわる言葉

「 Wikipedia~雅楽 」から引用。

塩梅(あんばい)

西洋音楽で言うところのメリスマ。近似する音程へ徐々に移行する一種のポルタメント。ゆっくりと慎重に音程を変更するところから、具合を測りつつ物事を進めるさまを表す。

八多羅(やたら)、八多羅滅多羅(やたらめったら)、滅多(めった)

現在は矢鱈と書くがこれは明治時代に夏目漱石によって作られた当て字で、本来は雅楽の拍子を指す。2拍子と3拍子のリズム細胞を繋げる変拍子。転じて、リズムが合わずめちゃくちゃで大袈裟な身振りや様を指す。多羅(たら)はサンスクリットのターラ(リズム)に由来する。

打ち合わせ(うちあわせ)

管楽器同士で練習をした後、打楽器を交えて、最終的なリハーサルをしたことから。

野暮(やぼ)

笙の17本の管のうち「也」と「毛」の音が使用されないことから。

様になる(さま-)/左舞なる(さまい-)

左舞(さまい)が上達することから。

上手い(うまい)

右舞(うまい)から。

二の舞を舞う(にのまいをまう)

「二ノ舞」は「安摩」とセットの番舞。左方の安摩が上手に舞った後、右方の二ノ舞は真似て舞おうとするが、上手に出来ずに滑稽な動きになるという設定。転じて他人の成功 を真似て失敗すること。他人の失敗 を繰り返す例に使われるのは本来は誤用。

呂律(ろれつ)

二の句を継げない(にのくをつげない)

朗詠で、一の句から二の句に移る時、急に高音となるため歌うのが難しいことから。


http://japan-history-travel.com/?p=9089

善通寺から空海のルーツを探る

(前略)

空海生誕の地だけあって見応えあるお寺ですね。

ところで空海は善通寺を創建するに当たり、唐に留学中に師として仰いだ恵果(えいか)が住していた長安の青龍寺を模したと言われています。

現在、青龍寺は元四国霊場会会長(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられているそうです。

四国八十八箇所参りを計画する際は最初に青龍寺を訪問しなければならないかも(^^;

冗談はさておき、この青龍寺と善通寺の位置に焦点を当てると奇妙な一致がみられます。以前、善通寺と青龍寺は共に北緯34度14分に位置していると言う記事を読んだ事があるのでグーグルで確認したところ同じ線上に位置していました。ちなみに北緯34度13分上には高野山があります。

青龍寺から更に北緯34度14分を西に向かって行くと何があるか調べたところイスラエルのベエルシェバと言う町に当たりました。

この地名は聖書にしばしば登場し、創世記ではアブラハムやイサクがアビメレクと誓いをかわした場所として登場するそうです。

また、ベエルシェバはイスラエルの12氏族の住む土地の南端であったため、北端のダンとともに「ダンからベエルシェバまで」という言葉がイスラエルの民の住む土地の意味で使われているそうです。

このようにベエルシェバはイスラエルの民にとって重要な土地と言う事が伺えます。

空海の原点とも言える善通寺と同緯度には空海ゆかりの地である青龍寺が存在し、更にその先にイスラエルの民にとって重要な町ベエルシェバがあると言う事はやはり空海のルーツはイスラエルにあるのでしょうか?

この世に存在している人には誰もが先祖を持ちDNAを受け継いでいます。そして、その中には必ず優れた才能を持ち合わせたDNAがあるはずです。

和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる善通寺を訪ねて先祖から受け継がれた才能を見つけ出しましょう!




コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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