藤原氏の蘇我氏への遺恨

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邪馬台国は、どうして日本の古文書に記述が無いのでしょうか?

現存する最古の書物である古事記・日本書紀や、諸国風土記にも記述はありません。

八世紀に書かれたこれらの書物が、それよりも500年も前だった卑弥呼時代の記憶を、無くしたからでしょうか?

たとえそうだとしても、七世紀から始まった「遣隋使」や「遣唐使」という日本の超優秀な留学生たちが、中国の国史である「三国志」を読まなかったとは考えられません。

では、なぜ? 

歴史から抹殺すべき理由のある国、それこそが邪馬台国なのではないでしょうか?

今回は、記紀編纂に纏わる一般論を整理します。


古事記、日本書紀、諸国風土記に記述の無い「邪馬台国」。

まず、これらの歴史書が書かれた時代背景を俯瞰してみましょう。

五世紀までの近畿地方は、語り部たちによって歴史が語り継がれていました。

六世紀の継体天皇の時代に、紙と文字が、ようやく近畿に流入します。そこから紙に歴史が書かれ始めます。

七世紀には聖徳太子・蘇我馬子らによる律令国家、中央集権国家体制が推し進められます。それと同時期に中国への留学生の派遣が始まります。遣隋使や遣唐使です。彼らは、中国の書物を読むだけでなく、当時の世界の最先端文明の中国から、多くの文物を持ち帰りました。必然的に、近畿地方で書き溜められた書物は膨大な量になった事でしょう。

ところが、七世紀末の壬申の乱で、書物のほとんどが焼失してしまいます。この時代までが蘇我氏が朝廷の最高権力者でした。

そして、八世紀に新たに編纂された歴史書が、古事記、日本書紀、諸国の風土記です。

日本の歴史は、現存するこれらの歴史書抜きには何も語れません。

ただし、当時の権力者によって監修されていますので、物語をそっくりそのまま鵜呑みにする訳には行かないでしょう。

八世紀の最高権力者は、藤原氏一族でした。壬申の乱で歴史書をあえて焼失させたのも、藤原氏です。飛鳥時代に、朝廷内での権力抗争に勝利した一族ですので、藤原氏に都合のいいように歴史が書き進められたのは自然な事です。

ただし、次の二点には配慮されているように思います。

〇天皇が主人公であり、藤原氏はあくまでも家臣という従属する立場をわきまえている事

〇記紀よりも前に書かれた歴史書との乖離を、少なくしている事

藤原氏の記述は、自身が古くからの由緒正しい家柄の出身とする事以外、あまり多くはありません。政治の表舞台に現れるのは、七世紀の乙巳の変(いっしのへん)の中臣鎌足からであり、皇太子の中大兄皇子の補佐役としての役割です。ある意味、自分自身に謙虚です。その後は、紆余曲折がありながらも、皇室の最重要ポストに居座り続けますので、器が大きかったと言えるかも知れません。


記紀の歴史歪曲は困難だった。[邪馬台国]

以前の歴史書との乖離が少ない理由です。

古事記・日本書紀よりも前の歴史書が焼失したとはいえ、上宮記、国記、天皇記、などの歴史書がわずかに残っていたようですので、極端な歴史歪曲は出来なかったと思われます。仮に、藤原氏に都合の良い事ばかり記述すれば、ほかの豪族達の反感を買い、人心が離れてしまったでしょう。遣唐使という先進国で学んできた超優秀なエリート達をたくさん従えていたので、その辺の配慮はなされていたと思われます。飛鳥時代後期から千年以上も皇室の中心にいた豪族ですので、その初期段階で独裁的な歴史書を作成したとは、考えにくいです。

 なお、上宮記などの記紀より古い書物は、後の時代の書物に引用があるので存在が分かっていますが、それらは、十四世紀頃には全て処分され、現存していません。


なぜ邪馬台国の記述が無い?

次に最重要ポイントの、邪馬台国論争から見た記紀の特徴です。

①邪馬台国の記述がありません。

②九州勢力とみられる高天原が主人公となっています。

③蘇我氏一族を極悪人にしています。

①まず、邪馬台国の記述が無い事です。

遣隋使や遣唐使が中国で「三国志」を読まなかった訳がなく、その存在を知らないはずはありません。

考えられる理由としては、邪馬台国は、ヤマト朝廷とは全く無縁の存在だったから?邪馬台国は、取るに足らない、ちっぽけな存在だったから?記紀には、邪馬台国や卑弥呼がモデルと見られる神話が、僅かにある程度です。


記紀では、九州が主役。[邪馬台国]

②主役が九州勢力、についてです。

天照大御神や神武東征のように、天皇の祖先が本当に九州だったから?九州勢力に手こずっていた近畿勢力が、天皇の祖先を九州とする事で、九州豪族を懐柔したから?私は、藤原氏一族が、九州出身だったから? と考えます。

記紀を通して藤原氏は家臣という、従属的な立場を貫いており、自らの出身母体の九州を主人公と明記するのを避けたのでしょう。


蘇我氏は極悪人。[邪馬台国]

③蘇我氏一族を極悪人にしています。

これは明らかに、藤原氏一族の正当性を強調するためです。継体天皇の曾孫である聖徳太子をスーパースターにする事で、天皇家に忖度する一方で、聖徳太子と一緒に大改革を行った蘇我氏を極悪人にしています。乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を殺害し、壬申の乱で蘇我氏一族を滅亡させた藤原氏一族を正当化しているのです。

これらの事から、藤原氏が、邪馬台国の存在を歴史から抹殺したかった理由は、明らかです。九州系の藤原氏が、蘇我氏に対して強い怨念を持っており、蘇我氏の出身母体の邪馬台国を歴史から抹殺したかったからです。

また古事記では、ある天皇の偉大な功績も無視しています。その天皇は、蘇我氏の出身母体から出現した『謎の大王』です。次回は、藤原氏と蘇我氏が対立した経緯や、記紀での『謎の大王』の扱いについて検証します。

邪馬台国が歴史から消された原因は、藤原氏の蘇我氏への遺恨です。蘇我氏一族を完全に滅亡させた後でも、藤原氏の怒りが収まらなかったのでしょう。古事記・日本書紀の編纂においても、蘇我氏一族がいかに極悪だったかと記述するだけでは飽き足らず、蘇我氏の支持基盤であった邪馬台国を歴史書から抹消することで、藤原氏の溜飲が下がったのでしょう。

では、遺恨の原因は何か?

藤原氏の息の掛かった記紀からだけでは見えて来ない状況を、藤原氏と蘇我氏の勃興の時期から追跡して、両者の関係を見極めて行きます。


記紀編纂時の天皇家の最高権力者だった藤原氏ですが、そのルーツはほとんど記されていません。中臣鎌子、中臣勝海などの祖先の記載もありますが、特筆すべき活躍はありませんでした。中臣氏(藤原氏)が活躍し始めるのは、七世紀の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を殺害するところからです。

突如現れた正義の味方・中臣鎌足として現れます。中臣鎌足はその後、藤原姓を貰い受け、朝廷の重臣として長く天皇家に仕える事になります。

 では、中臣氏とはどこから来たのでしょうか?


 京都山科で、神事をつかさどる豪族だったという説や、中臣氏を祭る神社がある茨城県とする説などがあります。しかし、神社伝説は忌部(いんべ)伝説のように、ほとんどが後の時代に創作したものです。

 歴史を辿っていけば、藤原氏の祖先は、近江の豪族・近江毛野(おうみのけの)の可能性が高いでしょう。この豪族は北部九州や朝鮮南部の磐井一族で、継体天皇と共に西暦500年頃に畿内に入った豪族です。近江国を任されていました。


藤原氏が、天皇家の主要豪族になる前の六世紀の主要豪族は、蘇我氏、大伴氏、物部氏などです。彼らは、六世紀に越前の大王・継体天皇が近畿を征服した際に、主要ポストについた豪族達です。

このうち、大伴氏と物部氏は近畿在来の古参の豪族です。蘇我氏については諸説あるものの、越前の若長宿祢を祖として、越前の大王に仕えた豪族と考えられます。詳しくは、私が以前に作成した動画、「邪馬台国の重臣 蘇我氏は渡来人」をご参照下さい。


この時代は、越前からの渡来人を介して中国・朝鮮の最先端技術が大量に流入した時代です。それだけでなく、政治体制も刷新され、守旧派だった豪族はことごとく排除されました。彼らに入れ替わるように、越前や同盟国の北部九州勢力が主要なポジションに就きました。中臣氏(藤原氏)も、この時代に九州から越前との連合軍として継体天皇に仕え始めました。

ところが記紀には、この時代には登場しません。藤原氏だけでなく、九州の他の豪族も、一切登場していません。それはなぜか?

 単純な話です。九州豪族が冷遇され、中臣氏(藤原氏)もまた冷遇されていたからです。


 九州勢力が冷遇された理由です。

 西暦527年に、北部九州で磐井の乱が勃発します。これは、継体天皇が磐余玉穂宮に遷都した翌年、つまり、近畿征服を完了してからすぐの事です。古代史に於ける最大の戦いで、北部九州と新羅が連合して起こした反乱です。越前と同盟関係にあった北部九州が、近畿征服後に何の恩恵にも預からず、不満が爆発したのではないでしょうか?

 これの鎮圧に向かったのが、九州系の中臣氏一族です。元々、磐井一族の流れをくむ近江毛野が、その役割を担い、九州や朝鮮へと向かいました。しかし、大失態を犯して大敗を喫してしまいました。

 倭国・日本は、この反乱の結果、朝鮮半島南部の利権を失う事になりました。

 この磐井の乱こそが、藤原氏が蘇我氏に対して怨念を持った根本原因と思われます。

九州系の中臣氏が、一族である近江毛野の失敗により、朝廷内での地位を落としてしまったからです。日本書紀・古事記にその事情を中臣氏の責任と明記していないのは、記紀編纂時の最高権力者が藤原氏だったからです。

 磐井の乱以降、皇室の主導権は、越前系の蘇我氏一族となり、九州系の中臣氏は冷遇される事になったのです。


 日本書紀によれば、蘇我氏一族は、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と、朝廷の最重要ポストを歴任し、大伴氏や物部氏などの主力豪族を失脚させたとしています。

 蘇我氏の独裁体制は、天皇をないがしろにした無礼な行いであり、これを征伐したのが藤原氏(中臣氏)だったというストーリーになっています。

磐井の乱以来、蘇我氏の独裁体制で冷遇され、辛酸を舐め続けた藤原氏(中臣氏)の怨念が、乙巳の変で蘇我入鹿の殺害へとつながったのでしょう。そして、蘇我氏一族の出身母体・邪馬台国を歴史から抹殺する手段を選んだのです。

 次回は、蘇我氏の出身母体の邪馬台国と、邪馬台国から出現した『謎の大王・継体天皇』に対する藤原氏の扱いについて検証します。


六世紀の磐井の乱以来、蘇我氏の独裁体制で冷遇され、辛酸を舐め続けた藤原氏(中臣氏)の怨念が、七世紀の乙巳の変で蘇我入鹿の殺害へとつながりました。

そして、壬申の乱で邪馬台国出身の蘇我氏一族は滅亡しました。

その後、歴史書再編(記紀編纂)において邪馬台国を歴史から抹殺する手段を選びました。

蘇我氏一族については極悪人としましたが、邪馬台国については人々の記憶から忘れさせる方法を選んだのです。

蘇我氏の出身母体の邪馬台国と、邪馬台国から出現した『謎の大王・継体天皇』に対する藤原氏の扱いについて検証します。


古事記・日本書紀よりも前の歴史書には、天皇記や国記などがありました。しかしこれらは壬申の乱で、ほとんど焼失してしまいました。その中で、焼失を免れた歴史書があります。上宮記です。

上宮記は、継体天皇から聖徳太子への出自系譜を中心とした歴史書で、七世紀頃に成立しました。鎌倉時代に書かれた日本書紀の解説書・『釈日本紀』にその引用がなされているので、その頃までは確実に存在していた書物です。

古事記・日本書紀を編纂するに当たって、この上宮記を無視して歴史を書き換える事は出来なかったはずです。

記紀編纂時に存在していた上宮記を元に、新たな歴史書が書かれた訳ですが、当然ながら藤原氏の意向が反映されました。現代の歴史教科書にも受け継がれている史実として、誰でも知っている常識は、

1.聖徳太子はスーパースター

2.蘇我氏は極悪人

です。近年、これらの再検証が盛んに行われているのは喜ばしい事です。

その陰で、ほとんど無視されてきた史実は、

1.継体天皇の功績

2.邪馬台国の存在

この二点は、藤原氏の蘇我氏に対する怨恨が理由です。それは、蘇我氏一族が越前の大王だった継体天皇の重臣だった事、そして、越前が邪馬台国だったからこそ、無視されました。


継体天皇についての日本書紀と古事記との記載です。

越前の大王の皇位継承という特殊事情ですので、それぞれ異なる対応をしています。

 日本書紀では、継体記に於いて、越前・邪馬台国の大王による王朝交替を悟られないように、事細かく記述しています。壬申の乱の後も存在していた『上宮記』に継体天皇の記述が多かった為、無視できない存在だったのでしょう。但し、あくまでも継体天皇の皇位継承に正当性がある事の言い訳だけに終始しています。功績に関する記述はほとんどありません。

 一方、古事記には継体天皇の記述は、通り一遍です。ほとんど無視した内容になっています。また、古事記・日本書紀に共通して、継体天皇の大革命についての記載がありません。

 近畿地方は五世紀までは古墳時代という黄金期を迎えたかに見えて、実際は周辺諸国から孤立していました。考古学的に、鉄・馬・紙・文字などの先進文明が伝来したのは、継体天皇の時代です。その事実を記紀では一切記していません。無視しています。あたかも、近畿地方に元々文明があったかのように。

 本来、継体天皇こそ古代史のスーパースターにすべき人物のはずが、藤原氏の邪馬台国への怨念によって掻き消されてしまいました。それに代わってスーパースター扱いされたのが、継体天皇の曾孫で、越前とは縁が無くなった聖徳太子だったのです。


神話の中の越前:悪者or無視 [邪馬台国]

邪馬台国は越前にありました。それゆえ、記紀の中では蘇我氏同様に悪者扱いされたり、あるいは無視されたりしています。

 記紀の神話においては、藤原氏の支持母体である九州・高天原が正義の味方であり、主人公です。高天原の天照大御神の弟・須佐之男命は、乱暴者ゆえ追放され出雲に向かいます。そこで戦った相手は、高志の国、すなわち越前の国のヤマタノオロチです。あまりにも有名なヤマタノオロチ伝説が、藤原氏と蘇我氏の対立、正義の味方・高天原と悪者・邪馬台国の描写に顕著に表れています。実在する特定の国を悪者扱いしているのは、ヤマタオロチ伝説だけです。

 さらに、須佐之男命の息子・大国主命伝説では、越前を完全に無視しています。出雲の国を旅立った大国主命は、日本海側を旅し、因幡、但馬、丹波、丹後、に伝説を残しますが、越前は完全に無視されています。越後の姫川の沼河比売(ぬなかわひめ)の話へ飛んでしまいます。高志の国では、古来より越前がナンバーワンの超大国だったので、何らかの神話があってもよさそうなものですが、見事なまでに無視しています。

 これもまた、藤原氏の蘇我氏に対する、すなわち邪馬台国に対する怨念がそうさせたのでしょう。

古事記の編纂者・太安万侶は、邪馬台国に関する緘口令を敷かれていた中、ヒントを残してくれました。ヤマタノオロチ伝説です。

『高志之八俣』すなわち『越の邪馬台』と、邪馬台国の場所を暗号のように後世に伝えてくれました。

『越の邪馬台』は、継体天皇によって近畿を征服し、奈良盆地南部を『ヤマト』と命名しました。

残念ながら、継体天皇の重臣・蘇我氏と、同盟勢力だった九州・藤原氏の権力闘争によって、邪馬台国の場所が歴史から抹殺されてしまいました。

現代において、邪馬台国のあった越前では、継体天皇が治水工事を行って農地を広げた事になっています。実際の地質調査では、継体天皇の数百年前、つまり卑弥呼の時代には治水工事を終えていたそうです。

これも藤原氏の陰謀です。蘇我氏から越前の土地を奪い取った藤原氏が、邪馬台国の実績を全て継体天皇の実績として、歴史の上書きをしていたのです

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