中臣鎌足

https://keiryusai.com/archives/7785    鹿島神宮は中臣氏の氏神さまだった…

◇古代史の謎を解明

松長会長はITに詳しいだけでなく、古代史と神社仏閣の縁起に異様に詳しいのでした。

たまたま、「埼玉風土記」の話になると、もう散逸して今は残っていないというのです。知りませんでしたね。現存している写本はたったの五つで、「出雲国風土記」がほぼ完本、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っているだけだというのです。

そして、常陸国の風土記が残ったのには理由があり、中臣氏の領地だったからだというのです。中臣氏とは、中大兄皇子とともに乙巳の変の革命を行い、大化の改新を遂げた、あの中臣氏です。中臣鎌足は、藤原鎌足と改名し、藤原氏は、摂関政治の黄金時代を築いて、現在でも血脈が続いているので、常陸国の風土記も現代まで残ったといわけです。

その証拠は、中臣氏の氏神が常陸国の鹿島神宮であり、この祭神を大和に移送して祀ったのが春日大社だというのです。神の使いといわれる鹿も一緒です。確かに、春日大社の「御由緒」の中には、記紀に出てくる出雲の国譲りの物語で成就された武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を鹿島神宮からお迎えしたと書いてありますね。中臣氏の氏神とも書いてありますから、結局、鹿島神宮は、中臣氏の氏神を祀った神社だったわけです。

そして、鹿島神宮の「神宮」は、そう滅多に名乗ることができないというのです。明治以前は、天皇家直系の伊勢神宮と、この鹿島神宮と、同じく国譲りの神話に出てくる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀った香取神宮(下総)しかありませんでした。明治以降になって、熱田神宮(三種の神器の一つ、草薙神剣が収められている)や明治神宮などがあるぐらいで、社格が段違いに凄いのです。

◇武蔵国の首都は鴻巣市だった!

さて、次は古代の武蔵国の話です。風土記が散逸してしまったので、詳細は分かりませんが、武蔵国の中心は、何と今の埼玉県鴻巣市笠原だったというのです。この地名に残る笠原とは、西暦534年頃に起きた「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」で、大和朝廷(今は「ヤマト王権」というらしい)の力を借りて、武蔵国を統一し、この辺りを拠点にした笠原直使主(かさはらのあたいおみ)から付けられたと言われてます。

おまけの話として、古代の地名の上野(こうずけ)国(群馬県)と下野(しもつけ)国(栃木県)はもともと、一つの国で「野」(け)と言われていたそうです。ヤマト王権は全国統一に当たって地元豪族を国造に任命したりしますが、その代わりに屯倉(みやけ)といって直轄地を寄進させます。年貢米の収穫が目的です。

こうして、お米の生産が上がっていくと、人口も増えていきます。そうなると、上野国、下野国のように、国を分割するわけです。「総(ふさ)」の国だったのが、「上総(かずさ)」(千葉県中部)と「下総(しもふさ)」(千葉、茨城、埼玉、東京)に。「備」の国は「備前」(岡山、兵庫、香川)「備中」(岡山県西部)「備後」(広島)に分かれるわけです。



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中臣氏の出自について(10)


 今日は、ゼーガーとエヴァンスの「 西暦2525年」を聞いている。

 大和岩雄の「日本神話論(大和書房)」(以下「大和論文」という)によれば、中臣氏の出自は対馬の卜部であるという。

 

 大和論文の論点は大変多いが、中臣氏の出自に関わる部分のみ検討しておきたい。

 大和論文では、おおむね以下のようにいう。

 日本書紀の顕宗天皇の記事に、「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく。「磐余の田を以って、我が祖高皇産霊に献れ」とのたまう。事代、便ち奏す。神の乞の依に田十四町を献る。対馬下県直、祠に侍へまつる」とある。

 これは、「対馬の国造の祀る神を畿内に分祠した」という記事であり、「日神」は、対馬国下県郡の「対馬の地域神阿麻氐留社であ」り、「高皇産霊」は、「延喜式」「神名帳」の対馬国下県郡の「高御魂神社」である。

 そして、対馬下県直が大和国で祭祀する「祠」は、大和国十市郡の「目原坐高御魂神社」であるが、この神社は所在不明であるが、「目原坐高御魂神社」は、大和国十市郡の現「天満神社」である、と考えられる。

 なお、この「目原坐高御魂神社」は、「多神社注進状」によれば、多神社の「別宮」とされており、同様に、大和国十市郡の「竹田神社」が、多神社の「若宮」とされており、この「竹田神社」は、対馬国の阿麻氐留神社の「祝」の竹田川辺連が奉斎していた。

 だから、多神社の「別宮」も「若宮」も、対馬国出身の氏族が奉斎していた。

 この、多神社は、三輪山山頂から昇る太陽を遥拝する、弥生時代からの聖地であり、日神とかかわりが深い神社であった。

 そして、大和論文では、「大和国で祀ったタカミムスビを、なぜはるか遠方の対馬島の下県直が来て祀ったのか」と問題提起をする。

 また、「亀卜」を行う、「延喜式」「神名帳」の対馬国下県郡の「雷命神社」の祭神は、中臣氏の祖の「雷大臣命」であり、同時に、永留久恵がいうように、「雷命神社」の祭神は、「本来は雷を神格化した固有の神であって、それが卜部の祭神だった」ので、対馬の雷神と中臣氏の祖の名と卜部とは結びつくので、中臣氏は対馬の卜部の出身であるという。

 そして、「なぜ対馬の日神が特に」「大和で祭祀せよと」「命じたのか」と問題提起し、「この伝承のバックに、対馬出身の元卜部の藤原・中臣氏がいた」という。

 さらに、「続日本紀」によれば、「新撰姓氏録」で中臣氏の同族とされている、対馬出身の津島連は、AD706年に新羅へ副使として派遣された2年後のAD708年に、「連」から通常の「宿祢」にならないで、中臣連と同様に、「連」から「朝臣」になって、同時に、AD706年当時の従六位下から三階級特進して従五位下に昇進している。

 「延喜式」「神名帳」によれば、タカミムスビ神社は、全国で四社しかなく、そのうち、対馬にある神社が一社、大和国で対馬下県直が奉斎する神社が一社であり、半分の神社が対馬と係わりがある。

 ここから、「なぜ辺境の地の対馬に、「紀」の神代紀の本文で降臨の司令官として「皇祖」を冠するタカミムスビを、かくも多く祀るのか」と問題提起し、「その理由を、藤原。中臣氏が対馬出身だから」であるという。

 そして、「タカミムスビの祭祀は、元卜部の藤原・中臣氏が祭政の実権を掌握した以降に、大和国にタカミムスビの神社を作り、大中臣朝臣が対馬の下県直を祭祀氏族にして祀らせた」、「わざわざ対馬島の下県直を大和の高御魂神社の祭祀氏族に選んだのは、中臣氏である」という。

 「新撰姓氏録」の中臣氏の同族で「朝臣」の姓を持つのは、三十八氏のうち六氏で、藤原朝臣、大中臣朝臣以外では、四氏しかおらず、「新撰姓氏録」の記載順の第三番目に津島朝臣が記載されている。

 だから、津島朝臣は、中臣氏の同族の中でも、特別扱いをされている。

 また、「二所太神宮例文」の「大宮司次第条」や「太神宮諸雑事記」、「続日本紀」などの記載によれば、津島朝臣は伊勢神宮の大宮司や伊勢国司になっている。

 

 そして、「辺境の対馬の卜部のツシマ氏が、伊勢国の国守、伊勢神宮の大宮司になっている事実は、藤原・中臣氏とツシマ(対馬・津島)氏の強い結びつきを示している」、という。

 以上ののことから、「元卜部の藤原・大中臣氏は対馬出身」であるという。

 

 ここまでの大和論文の論点を検証していきたい。

 まず、タカミムスビについて検討する。

 大和論文がいう、「大和国で祀ったタカミムスビを、なぜはるか遠方の対馬島の下県直が来て祀ったのか」、「なぜ対馬の日神が特に」「大和で祭祀せよと」「命じたのか」、「なぜ辺境の地の対馬に、「紀」の神代紀の本文で降臨の司令官として「皇祖」を冠するタカミムスビを、かくも多く祀るのか」という問題提起には、これらをひとまとめにして、考え方を示したい。

 このことについて、高寛敏の「倭国王統譜の形成(雄山閣)」(以下「高論文

という)では、おおむね以下のようにいう。

  高論文が引用する日本書紀の顕宗天皇の記事は以下のとおりである。

 (a)月神については、 「月神、人に著りて、謂りて曰はく、我が祖高皇産霊は、天地鎔造の功を有す。宜しく民と地を、我が月神に奉れ。」「以て歌荒樔田を奉る」(分注。歌荒樔田は山背国葛野郡に在るなり)。壱伎県主の先祖の押見宿祢が祠に侍へまつる」とある。

(b)日神については、「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく。「磐余の田を以って、我が祖高皇産霊に献れ」とのたまう。事代、便ち奏す。神の乞の依に四十四町を献る。対馬下県直、祠に侍へまつる」とある。

 

 ここでの「日神」は「我が祖高皇産霊」のために要求しており、月神は「我が月神」のために要求している。

 

 ここから、「タカミムスヒは「鎔造天地」の日月神であり、(a)・(b)の月・日神は、タカミムスヒが分化したもの」であり、「我が祖」「我が月神」は、「タカミムスヒにかわって日・月神が託宣を下した」ということである。

 なお、タカミムスヒによる、この「鎔造天地」神話は、北方民族系の鍛冶師創世神話で、日本書紀や古事記に書かれた創世神話とは別系統の創世神話であると考えられる。

 また、「隋書」によれば、AD600年に派遣された遣隋使は、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」といったという。

 これについて、寺川眞千夫は、「古事記神話の研究(塙書房)」で、「顕宗紀のいう高皇産霊が天地を鎔造し、日神・月神の祖であるとするところを、高皇産霊は天や日神・月神を作った祖神であるととらえなおしたうえで、もともと高皇産霊は皇祖神でもあったとみると、天皇は天や日神と兄弟ということになり」、隋書の記事と顕宗紀の記事は、「同じ伝承であった」という。

 そして、「推古朝までは、高皇産霊神は万物創生の神として天・地・日神・月神を生み成し、天皇の祖神でもあった」といい、「「古語拾遺」や「新撰姓氏録」がいうように、忌部氏や大伴氏など、多くの伴造氏族の祖神としても位置付けられていたとすれば、こうした信仰を持つ天皇家を中心とする疑似血族集団の存在を想定できる」という。

 こうした寺川眞千夫の主張から、当初、伊勢神宮に奉斎された高皇産霊神は、日神としての高皇産霊神であったと考えられる。

 

 対馬下県直が大和国で祭祀する「祠」は、「磐余田」に隣接することから、大和国十市郡にあった「大和の屯田」の近隣に比定される大和国十市郡の「目原坐高御魂神社」である。

 

 山城国に分祠された月神については、「続日本紀」の記事に「勅。山背国葛野郡月読神、樺井神、木島神、波都賀志神等神稲、自今以後、給中臣氏」とある。

 

 ここで「神稲を給した四神は屯田の神で」、月読神は葛野坐月読神社、「樺井神は綴喜郡樺井月神社、木島神は」「葛野郡木島坐天照御魂神社、波都賀志神は羽束師坐高御産日神社であるから、前二神は月神、後二神は日神としての「タカミムスヒである」。

 月神に奉献された「歌荒樔田に関係するのは 葛野坐月読神社」であるが、「月神に奉献された歌荒樔田に接して存在するのは、葛野郡木島坐天照御魂神社であ」り、月神を奉斎した葛野坐月読神社と日神を奉斎した葛野郡木島坐天照御魂神社は、並祀された。

 

 また、月神の樺井月神社は、木津川の対岸にある久世郡の日神の水主坐天照御魂神社と併祀された。

 このように月神と日神がセットになっているのは、「月神としてのタカミムスヒは一般的ではなかったので」、「日神と月神が並祀された」からである。

 

 この月神と日神は、壱岐国から山城国に、対馬国から大和国に分祀された神であるが、分祀されたのは、壱岐国や対馬国の神社在地に既に存在していた「壱岐の月読神社や対馬下県の阿麻氐留神社」ではなく、「壱岐の高御祖神と対馬下県の高御魂神」であった。

  「そしてこの両神は、本来は壱岐や対馬の神ではなく、王権によって壱岐県主や対馬下県直を通じて、奉斎された神であ」り、逆に、「それを契機に、壱岐県主は月読神を、対馬下県直は阿麻氐留神を奉斎神とするようになった」。

  「それではなぜ、壱岐県主と対馬下県直が歌荒樔田と磐余田に各々侍祀するようになったか」は、「壱岐の高御祖神社と対馬の天照高御魂神に関係する」。

 この、月神と日神についての日本書紀の顕宗天皇の記事の「阿閉臣事代」は、「託宣神と同名の「事代」を名として」おり、「実在の人物とは考えられ」ず、天照大神が奉斎される前は、「タカミムスヒが伊勢神宮の神であった」ので、日本書紀の選者が、物語の構成上、「伊勢神宮に関係した阿閉氏が登場」することにして、創作したのである。

 そして、日本書紀の選者は、託宣を受けたのは、「阿閉臣事代が任那に使いした時のように構想し」、「日本書紀の顕宗天皇の記事の任那関連記事の「前奏」の記事としたのである。

 だから、日神や月神に係る日本書紀の顕宗天皇の記事については、その記事の材料に古伝承が含まれてはいるが、記事自体は創作であり、壱岐県主や対馬下県直が大和国で月神や日神としてのタカミムスヒを奉斎したのは、日本書紀がいう顕宗天皇の時代ではない。

 そのうえで、「壱岐県主と対馬下県直が歌荒樔田と磐余田に各々侍祀するようになった」経過を検討するためには、 日本書紀の系譜と物語が形成されるまでの経過を検討する必要がある。

 以下、高論文に従って、何故、タカミムスビを大和国で、対馬国と壱岐国の在地氏族が奉斎したのか、それはいつごろのことだったのか、について検討したい。

 なお、高論文のここまでの論述で、大和論文と異なることは、日本書紀の顕宗天皇の記事について、大和論文では、日神は対馬国下県郡の対馬の地域神阿麻氐留社であり、高皇産霊は、「延喜式」「神名帳」の対馬国下県郡の高御魂神社であるとするが、高論文では、日本書紀の記事の記述から考えると、日神も月神も高皇産霊の分身であり、月神としての高皇産霊は壱岐の高御祖神で、日神としての高皇産霊は対馬下県の高御魂神であったと考える。

 

 大和論文では、対馬国や壱岐国に、高皇産霊の分身である日神や月神の他に高皇産霊自身が奉斎されたと考えられているが、従えない。

 高皇産霊が奉斎されたのは、宮中深くであり、対馬国や壱岐国、山城国や大和国で奉斎されたのは、高皇産霊の分身の日神や月神である。

 これは、溝口睦子が「王権神話の二元論(吉川弘文館)」でいうように、天と日と月を、それぞれ別のものであると考える、当時の倭人の思考法から、高皇産霊が分化して奉斎されたと考えられる。 

 なお、大和論文が指摘するように、「目原坐高御魂神社」は、多神社の「別宮」であり、創建時は対馬下県直に奉斎され、多神社の「若宮」である大和国十市郡の竹田神社が、対馬国の阿麻氐留神社の「祝」の竹田川辺連に奉斎され、多神社の「別宮」と「若宮」を、それぞれ対馬国の在地氏族が奉斎している。

 この「竹田神社」の奉斎が、いつから行われたかはわからないが、「目原坐高御魂神社」の創建に関係していると考えられ、そのときから、対馬国の在地氏族が大和国に進出してきたと考えられる。


中臣氏の出自について(10)に続いて、タカミムスビについて、検討したい。

 高寛敏の「倭国王統譜の形成(雄山閣)」(以下「高論文という)によれば、日本書紀の系譜と物語が形成されるまでの経過は、以下のとおりである。

現在の天皇家の系統は継体天皇をその実質的な開祖とし、継体天皇は、百済や新羅の圧力により南朝鮮情勢が劣勢になる不安定な情勢で、競合する筑紫の君磐井を打倒して、従来の倭王権よりもより広範囲の国内支配と統合を実現させた。

 6世紀半ばの欽明天皇は、蘇我氏の力によって、屯倉や国造を設置・任命し、国内支配体制を整備していったが、その国内支配体制を思想的に支えるものとして、当時の先進国であった高句麗神話をまねて、日神の子の降臨神話を構想した。

 こうした事情から、継体天皇から欽明天皇にかけて、日神のタカミムスビが、王権神話として構想されていったと考えられる。

そして、6世紀半ばの欽明天皇のときに、天皇の祖先は天から降臨した日神の子であるとし、その祖先と現天皇家とを繋ぐ系譜と、その系譜を説明する物語を、倭の五王の系譜と断片的に伝わった物語、そして、継体天皇の即位事情の記憶などを組み合わせて構想し、倭国の初めての「史書」を創作した。

 これが、系譜1と物語1であり、そこでは、高句麗の建国神話の「天帝」で、始祖王朱蒙(衆解)の父の解慕漱をコピーしたタカミムスヒが、伊勢国に伊勢大神として降臨し、その子は、そこから宇陀や忍阪を経由して大和国に入り、即位して崇神天皇となったとされていた。

 なお、最初の段階での神話の構想が、伊勢に降臨して宇陀や忍坂を経由して、6世紀前半の王宮が所在した磐余で即位したとされていた名残のために、日本初期や古事記の神話では、熊野から吉野を経由して、直進しないで、宇陀から忍坂に進む物語になっている。

 なお、神武天皇が熊野で神剣を与えられた話に出てくる「高倉下」の「高倉」は、「伊勢外宮正殿のすぐ南にある高倉山のことで」ある。

 そして、大和入りのルートが、最終的に熊野を経由することになる以前は、紀之川を遡行し吉野に至る物語であったと考えられる。

 7世紀前半の推古天皇の時代に、百済王族の血を引く蘇我氏の強い影響力のもとで、6世紀後半に外交関係をもった高句麗の建国神話の波乱万丈の東征神話に対抗し、また、百済や金官加羅の建国神話も取り込んで、タカミムスビの子のヒコホノニニギが降臨し、始祖王はその子の神武天皇とされ、神武天皇による雄大な東征神話が新たに構想された。

 そして、倭国の王統譜を高句麗の王統譜と同じ形にするともに、倭国の建国年を高句麗の建国年に近づけるため、天皇の代数が架上され、いわゆる欠史八代のうちの前五代が、神武天皇と崇神天皇の間に追加された。

このとき、神武天皇の降臨先と東征の出発点に設定されたのが、対馬国と壱岐国であった。

 この降臨地の変更によって、伊勢大神は倭王の祖神の地位から転落し、AD622年以後、天智代まで、伊勢神宮への斎王派遣が停止され、7世紀前半以後、天武代までは伊勢神宮祭祀は後退している。

 日本書紀では、「神武が日向国・豊国宇佐・筑紫岡田宮をめぐった後、東征したとある」が、「本来なら宇佐から直ちに瀬戸内海を目指すべきなのに、遠賀川河口の岡田宮に1年滞在したというのは、元の伝承では、対馬や壱岐から、遠賀川の河口に来たということになっていたので、その伝承の名残であると考えられる。

 そして、「王権は、タカミムスヒを宮中に祀り、後々まで宮廷祭祀の主神とする一方、壱岐に月神としての高御祖神、対馬に日神としての天照高御魂神を祀って、それぞれ壱岐県主と対馬下県直に侍祀させるとともに、屯田としての歌荒樔田と磐余田に月神・日神としてのタカミムスヒを祀り、またそれぞれ壱岐県主と対馬下県直の一族に侍祀させた」。

 なお、「磐余田」で祭祀したのが「対馬上県の人物ではなく下県の人物でなければならなかったのか」は、それは、「下県郡の高御魂神が前提となっているからであ」る。

 また、系譜2と物語2は、7世紀後半の天武代に、百済の王統譜に対抗して倭王の世代数を増やすとともに、日向三代と欠史八代の後三代を加え、神統譜を完成させた系譜3、物語3にかわり、その後、系譜3と物語3をもとにして、日本書紀や古事記の系譜と物語が作られた。

その結果、対馬国や壱岐国に創建されたタカミムスビを奉斎する神社への祭祀は、地域の民衆に信仰された神社ではなく、伊勢神宮のように、王権のみが祭祀することができる神社であったので、しだいにすたれていった。

 そして、対馬国や壱岐国から大和国に分祀された月神や日神としてのタカミムスビを奉斎する神社も、タカミムスビが天皇のみが祭祀する神として、宮中で祀られる一方、日神や月神としての「鎔造天地」のタカミムスビの神話が忘れられ、伊邪那美、伊弉諾による国つくりと、日神アマテラスの子(その後、孫に変更される)の降臨神話が流布されるのに伴って、その祭祀は国家的性格を失い、すたれていった。

このように、対馬国に日神としてのタカミムスビが、壱岐国に月神としてのタカミムスビが奉斎されたのは、そして、それらの神が大和国に分祀され、それらの神社が大和国の屯田に併設され、対馬国と壱岐国の在地の氏族の一族が、それらの神社を奉斎するようになったのは、7世紀前半に、倭王権による系譜2とそれに伴う物語2の倭国の建国神話で、祖神のタカミムスビの子が降臨し、神武天皇が東征に出発する場所として、対馬国と壱岐国が設定されたからである。

また、タカミムスヒは、「鎔造天地」の創世神話を持つ日・月神であり、高句麗の建国神話の「天帝」で、始祖王朱蒙(衆解)の父の解慕漱をコピーしたものであり、月神や日神は、タカミムスヒが分化したものであった。

 つまり、倭国の建国神話の構想が変更になったことで、対馬国や壱岐国がタカミムスビと結びつき、対馬国や壱岐国の在地氏族が、在地に新たに創建された日神や月神の神社を奉斎するとともに、その月神や日神を大和国で奉斎する神社のために、大和国に移住したのである。

 これが、大和岩雄の「日本神話論(大和書房)」(以下「大和論文」という)での、「大和国で祀ったタカミムスビを、なぜはるか遠方の対馬島の下県直が来て祀ったのか」という問題提起に対する、高論文の説得力のある回答である。

そして、大和論文の「なぜ対馬の日神が特に」「大和で祭祀せよと」「命じたのか」という問題提起に対する回答は、「対馬の日神」は、タカミムスビの分身で、系譜2と物語2では、対馬国にタカミムスビの子が降臨し、その子の神武天皇が大和国に東征したとされたので、対馬国に創建されたタカミムスビの分身の日神の神社を、大和国に分祀したからである。

 これらの政策が行われた時代は、7世紀半ばの推古天皇の時代である。

 だから、大和論文が、「タカミムスビの祭祀は、元卜部の藤原・中臣氏が祭政の実権を掌握した以降に、大和国にタカミムスビの神社を作」ったとするのには、従えない。

 これらの政策を進めた人物は、推古天皇と当時の政権の中心にいた蘇我馬子であった。

だから、この時点では、中臣氏はそれ程の力を持ってはいなかったので、大和論文がいう「この伝承のバックに、対馬出身の元卜部の藤原・中臣氏がいた」とか、「わざわざ対馬国の下県直を大和の高御魂神社の祭祀氏族に選んだの、中臣氏である」とかいう主張には従えない。

 このように、大和論文は、タカミムスビ祭祀が王権祭祀であるということと、タカミムスビ祭祀と神武東征神話には深い関係があるということ、そして、天孫降臨の地が何度も変更されたということなどを、理解していないので、何故、対馬国や壱岐国の在地豪族が大和国内で日神や月神を祭祀したのかの理由を考えられず、それらを中臣氏や藤原氏に、安易に結び付けて「説明」している。

 また、大和論文では、「対馬の雷神と中臣氏の祖の名と卜部とは結びつく」ので、中臣氏は対馬の卜部の出身である」というが、「新撰姓氏禄」「神名帳」の13の雷神を祭神とした神社をみると、畿内にある神社は、7社であるが、そのうち6社は、大和国葛城地域を起源とした神社で、残る1社は、陶邑にある神社である。

 また、大和国葛城地域を起源とした神社を奉斎したのは葛城鴨氏で、大和国葛城地域には渡来系氏族の秦氏が居住し、葛城鴨氏も秦氏も葛城氏に従属していたため、葛城氏との関係で時陶邑にいた渡来系氏族の影響を強く受けていた、と考えられる。

 ここから、雷神は日神の一神格であり、雷神を祭神とした神社は、渡来系氏族の影響を受けた神社であると考えられる。

また、大和論文がいう、対馬国の雷神を祭神とする神社と中臣氏の祖の「雷大臣」が共通するから、「中臣氏は対馬の卜部の出身である」という主張の、中臣氏の「雷大臣」について検討する。

中臣氏の同族を主張する氏族の「新撰姓氏録」での系譜記事では、それらの氏族は「雷大臣」を祖としている。

しかし、中臣氏の系図に「雷大臣」が記載されてるものと記載されていないものがあり、「天児屋根」命の5代後に、似た名前の「伊賀津臣」命が記載され、同11代後の「跨耳」命に注書きで「雷大臣」が記載されている系図もある。

ここから、中臣氏にとって、「雷大臣」は、前述の系譜で第10代に記載されている「臣狭山」命のように、当初の系譜に架上されたと考えられ、また、系譜上の人物への付記という形での架上であるので、その架上の時期はかなり遅いと考えられる。

中臣氏系図への「臣狭山」命の架上は、鹿島神宮からタケミカヅチを遷座して春日大社が創建された前後であると考えられ、「雷大臣」の架上は、その付記という架上形式からしても、それに遅れるもので、津島朝臣が中臣氏の同族に参加し、中臣氏・藤原氏との関係を深めたことにより行われ、津島朝臣の系譜をとり込んだ物であると考えられる。

 なお、系譜の第5代の「伊賀津臣」命は、その伝承が存在するのは近江国であり、伊香連が中臣氏の同族集団に参加したことにより、中臣氏の系譜に架上されたと考えられる。

 また、「雷大臣」は、「新撰姓氏録」では、対馬国の下県直や壱岐国の壱岐県主の祖とされているが、宝賀寿男の「古代氏族の研究⑤中臣氏(青垣出版)」によれば、「先代旧事本紀」の「国造本紀」には、「伊吉島造は」、「天津水凝の後の上毛布直を祖とする」、津嶋県直は、「高御尊の五世孫、建弥巳々命直となす」と書かれており、こちらの系譜の伝承の方が古いと考えられる。

そして、津島朝臣の雷神祭祀の伝承は、伽耶などの朝鮮半島南部からの影響であり、中臣氏の「雷大臣」も、対馬国や壱岐国の雷神信仰の影響などから構想されたものであると考えられる。

そして、そうして一旦成立した「雷大臣」の系譜が、対馬国や壱岐国の在地氏族を含めて、中臣氏の同族とされる氏族の共通の祖として、「新撰姓氏録」などで主張されるようになったと考えられる。

以上のように、対馬国の雷神を祭神とする神社と中臣氏の祖の「雷大臣」が共通するという大和論文の指摘については、中臣氏が祖の一人にしている「雷大臣」は後世の架上であるので、「中臣氏は対馬の卜部の出身である」という主張の根拠とはならない。


 「中臣氏の出自について(11)」に続いて大和論文の主張の検討を行う。

 津島朝臣について検討する。

 

 大和論文がいう、「辺境の対馬の卜部のツシマ氏が、伊勢国の国守、伊勢神宮の大宮司になっている」が、この「津島朝臣は、中臣氏の同族の中でも、特別扱いをされている」という指摘については、以下のように考える。

 

 確かに、藤原不比等と津島朝臣との関係は深いと考えられるが、それは、「藤原氏が対馬出身であった」からではなく、藤原不比等と津島朝臣の個々人との個人的な関係であると考えられる。

 

 もしも「出身地の氏族だから」とか「元は同族だったから」大事にしたというのなら、藤原不比等のもっと前の中臣連の人物、例えば、藤原鎌足や鎌足の従兄弟で天智天皇と大友皇子のときの右大臣となった中臣金などが、津島朝臣を、対馬下県直の時代から、もっと大事にしたはずである。

 

 だから、津島朝臣が大事にされるのは、藤原不比等個人のみの力によることが大きく、「藤原氏が対馬出身であった」からではないと考えられる。

 以上みてきたように、大和論文がいう、「中臣氏は対馬の卜部の出身である」という主張には、どれも根拠がないと考えられる。

 なお、大和論文では、「中臣氏は対馬の卜部の出身である」ということを前提として、以下のようにいう。

 

 「新撰姓氏禄」で、中臣氏の祖の一人である「雷大臣命」を祖とする氏族のなかに、山城国神別の「呉公」と河内国未定雑性の「三間公」がいる。

 この「呉公」は、「渡来した呉人」の氏族であり、日本書紀の雄略天皇の記事の「即ち呉人を檜隈野に安置らせたまふ。因りて呉原と名く」と書かれた「呉原」に関係している。

 そして、この「呉原」は、現奈良県高市郡明日香村「栗原」で、「新撰姓氏禄」の右京未定雑性の「中臣栗原連」は本来は、「中臣呉原連」である。

 

 だから、渡来系氏族の「呉公」とその同族の「中臣栗原連」が、ともに中臣氏の同族を主張している。

 

 また、「三間名公」は、朝鮮半島南部の「任那」に基づくので、渡来系氏族であるが、中臣氏の同族を主張している。

 

 そして、中臣氏の祖の「津速魂命」を祖とする、「新撰姓氏禄」の山城国未定雑性の「春日部主寸(村主)」や「大避」も渡来系氏族である。

 

 大和論文では、中臣氏と渡来人とのこうした関係から、「藤原。大中臣氏は伽耶の亀卜をもって対馬に来た渡来氏族ではないかという大胆な推測もできないわけではないが、亀卜を行う中臣氏は対馬出身の卜部として、伽耶の先進文化・技術、さらに祭儀・風習を受け入れて、卜部から成り上がったと見たい」という。

 しかし、渡来系氏族を同族集団に取り込んでいる氏族はかなり多いので、そのことだけから、その氏族が渡来系氏族であるとはいえない。

 

 また、大和論文の論述では、中臣氏が対馬国で「伽耶の先進文化・技術、さらに祭儀・風習を受け入れ」たという具体的な内容は分からないし、「卜部から成り上がった」という過程も、具体的にわからない。

 

 だから、大和論文のこのような主張は、根拠のないものである。

 

 中臣氏と渡来系氏族との関係は、陶邑にもあり、それらは、中臣氏が屯倉の設置と運営に係ったことから、同じく屯倉に係っていた渡来系氏族との関係が構築されたことで、それらの渡来系氏族が中臣氏の同族集団に組織されたのであると考えられる。

 そして、中臣氏が枚岡神社に従属する卜部から分離・上昇したのは、摂津国三島での、亀卜や須恵器生産と継体天皇の勢力との出会いであり、中臣氏の持つ「技術」とは、まず第一に、各種の高熱処理技術とその応用であったと考えられる。

 大和論文によれば、大和岩雄は、今後、「藤原・中臣氏の研究」を「新知見を加えて」「書下す」というが、その出版を期待したいし、その中で、ぜひ高寛敏の一連の著作に言及されることを願っている。

 なお、大和論文を読んで感じたことは、古事記や日本書紀の物語は系譜を語るためのものであるという、西條勉の主張や、その古事記や日本書紀の系譜と物語が、直木孝次郎や西條勉、吉井巌や高寛敏などによる、何段階に渡って修正・変更されてきたという主張などの、古事記や日本書紀に記載された系譜と物語に対する史料批判の弱さである。

 そしてそのために、大和論文では、様々な指摘をしているが、それらはいつ頃のことなのか、という、時間軸の定点を持ちえないで、今は昔のこと、となってしまう。

 また、そのことは、そうした系譜や物語が、どのような経過で、どういう意図で、変化させられてきたのか、そして、それが変化させられる前の形はどうだったのかを復元するという問題意識とその手立てを失うことに繋がっている。

 その意味で、大和論文の論述は、様々な材料の提示にとどまっており、それらの材料の解釈についてはあまり成功していないと考える。

 なお、大和論文では、中臣氏の出自以外に、古代の日本では、神は男女の対偶神としてセットで信仰されており、奈良・平安時代の即位の宣命や宮廷祭祀の祝詞でも、天孫降臨の司令神は「カミロキ・カミロミ」とされていると指摘している。

 そして、この「カミロキ・カミロミ」は、日本書紀の神功皇后の記事に書かれた「橦賢木厳御魂天疎向津媛命」の「橦賢木厳御魂」が「カミロキ」で、「天疎向津媛命」が「カミロミ」であり、その後「カミロキ」が「高御産霊」に、「カミロミ」が、「神産霊」とされたという。

 確かに、大和論文がいうように、古代の日本では神は男女の対偶神としてセットで信仰されていたと考えられるが、6世紀半ばごろまでに万物の創生神と皇室の祖神として構想されたタカミムスヒは、三諸山の山頂付近の一本杉を依代としたそれまでの日神の高木神を、後の伊勢神宮の心御柱に遷座して奉斎された神である。

 このタカミムスヒが奉斎されたときには、男女の対偶神としてではなく、伊勢神宮の正殿中央部の床下に建てられた心御柱を依代とする、男性の日神という形であったと考えられる。

 その後、神は男女の対偶神であるという古代の日本の考え方によって、男性のタカミムスヒの対偶神の女性のカミムスヒが構想され、その神話が流布されていったと考えられる。

 そして、最終的に、タカミムスヒに奉仕する日女をもとに、それまでのカミムスヒではない、持統天皇をモデルにした新たな女性の日神が、7世紀後半の持統朝で構想されたと考えられる。

 ここから、伊勢神宮で祀られている三種の神器である八咫鏡は、それが入った御桶代が入った御船代は、心の御柱の直上に当たる位置に祀られているが、これは、伊勢神宮でアマテラスが奉斎されてからであると考えられる。

 

 なお、アマテラスよりも古い伊勢神宮の祭神であったと推定される、男性のツキサカキイツノミマタと女性のアマサカルムカツヒメの対偶神が、タカミムスヒの奉斎以降のどの時点の神名であるかはわからないが、それほど古くはないと考えられる。

 また、アマテラスが日女から日神に「成り上がった」ということについて、寺川眞知夫の「古事記神話の研究(塙書房)」(以下「寺川論文」という)では、以下のようにいう。

 

アマテラスとの「うけい」に勝ったスサノオは、暴虐を尽くして高天原の秩序を破壊しようとしたが、アマテラスには他の神々は誰も協力しなかった。

 アマテラスが、どうしようもなくなって天の岩屋に隠れると、世界は暗闇となって、他の神々が集まって、アマテラスを天の岩屋から引き出そうとする。

 世界が暗闇となったことで、高天原の他の神々は、アマテラスの力を知り、アマテラスを高天原の主神とし、その支配を受け入れ、スサノオを追放する。

 だから、天の岩屋神話は、一人の日女だったアマテラスが、高天原の主神としての権力を握り、日神となったことを解き明かした神話である。

 

 この寺川論文の主張は、大和論文がいうアマテラスの「成り上がり」を、古事記の神話のストーリーとして読解したものである。

 

 その他、大和論文では、天の岩屋神話やウズメ・サルタ神話を、世界に点在する日神との聖婚と日光受精に係る女陰開示の石像などの日神祭祀儀礼を参照することで、ウズメの女陰開示の神話における意味とその始原性を指摘している。

 さらに、大和論文では、女陰開示の石像として、イギリスのセント・メアリ=セント・ディヴィド教会の12世紀の「シーラ・ナ・ギグ像」、アイルランドのカヴァン教会の12世紀の「シーラ・ナ・ギグ像」、フランスのモンペローの聖母訪問教会の13世紀の女性像、イタリアのミラノのトサ門の上にある12世紀の石像などを、写真付きで紹介している。

 これらの女陰開示の石像は、石像に女陰が刻印されているというのではなく、自らの両手で女陰を左右に押し広げているものである。

 これは、キリスト教が伝来する前からの信仰の残存であり、同様の信仰は、日本でも、巫女を表現した女陰を露出した埴輪が出土していたり、男根と女陰を彫刻した江戸時代の道祖神も存在していて、原始・古代の世界に共通の信仰であったと考えられる。

 こうした信仰は、日神祭祀でいえば、冬至における太陽の死と再生の神話であり、それは、例えば、インカの「太陽の処女(アクヤクーナ)」が行った、毛抜きのピンセットと拡張具と凹面鏡を使った、太陽との聖婚と日光受精の儀式であり、前述の石像のポーズと共通する。

 そして、天の岩屋神話について、古事記では、服織女が梭で女陰を突いたとされ、日本書紀では、アマテラスが「身を傷ましめたまふ」とされているが、「本来の神話は日女としての天照大神の女陰を突いた神話」であり、「日神の死と再生神話」として、「インカの冬至の祭儀」と同じ考え方である。

 ここから、原始・古代の信仰においては、死と再生の象徴こそが、子どもが生まれ、そして、死んで帰ってゆくという、岩屋・女陰であったと考えられる。

 だから、天の岩屋神話で、冬至で死んだ太陽を象徴するアマテラスが隠れたのは、岩屋でなければならなかったし、ウズメ・サルタ神話で、ウズメは女陰開示をする必要があった。

 大和論文によれば、これらの神話には、そうした原始・古代の信仰の名残があるのである。

 

 大和論文では、以上の指摘の他に、持統天皇が孫に譲位するために天子降臨を天孫降臨に変えさせたことや藤原不比等が天智天皇に重ねてタカミムスヒに皇祖と追記したことなど、持統天皇と藤原不比等が権力を握りながらも、王族や貴族の多数派ではなかったという不安定な政治基盤から、日本書紀や古事記の記述が、その完成の直前まで修正されていったという指摘もしているが、妥当な指摘であると考える。 

 また、大和論文では、現存「古事記」は、持統朝の内廷・後宮で編纂された原「古事記」に、平安時代初期の人物の多朝臣人長が、内容を一部修正し、新たに序文を付けて世に出したものであるというが、妥当な指摘である。

 

 大和論文のこれらの論述は、刺激的であり、関心がある方は、一読されたい。

 なお、上記以外にも大和論文では、様々な指摘を行っている。

 それらの指摘については、異論もあるし、補足説明が必要だと考えるものもあるが、それでも、新たな議論の出発点にはなりうるし、その重要性は高いと考える。

 大和論文を参照せずには日本古代史は論述できないと、改めて感じた。




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