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タイトル:日本神話と古代史と文化 スサノヲ (スサノオ)さん投稿記事
◆◇◆山城の「カモ」と葛城の「カモ」
大和の葛城地方にも、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ神が祀られてる。山城の「カモ」と葛城の「カモ」とは、どういう関係があるのであろうか?『記・紀』神話の「神武東征」説話とどのような関係があるのであろうか?
『記・紀』神話の「神武東征」説話では、神武軍が「熊野」から「ヤマト」へ出ようと山道を進みあぐねていたとき現れた「高倉下」と「八咫烏」とは、葛城地方の土豪であったようである。
「高倉下」は系譜上ニギハヤヒ命(饒速日命)の子とっているが、葛城のオワリ氏の祖でもある。「八咫烏」は同じく葛城のカモ氏の祖である。
葛城地方にはオワリ氏とカモ氏がいた。葛城山(現在の葛城・金剛山系)とは、神奈備(御室、聖なる)山であり、そこは「高天原」とも呼ばれていた。「高」こそが葛城の重要な謎を解く言葉であるようだ。
神武たちが「高皇産霊神・高御産巣日神」(高木神、日神)の信仰を持ち込んだためであろうか、後ちに、オワリ氏は「高尾張」、カモ氏は「高鴨」と呼ばれるようになった。
もともと「カモ」とは平野が山に深く入りこんだ地形のことを指す。葛城の桜草でも有名な高鴨神社(鴨神社の総社、祭神はアジスキタカヒコネ命神・味耜高彦根命神)は、葛城族(別名鴨族)の守り神として信仰を集め、また全国に広まる鴨神社の総社となっている。
この神社が置かれている丘が、葛城にまだある高城で、神武天皇がここで国見をして「秋津島(「アキツシマ」とは葛城のクニの名)」と名付けたという。
そして高鴨神社は、この秋津島のカモ(平野が山に深く入りこんだ地形)の入り口に突き出た丘に鎮座する。
葛城を代表する神は、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ鴨都味波神社の「コトシトヌシ命神(事代主命神)」と高鴨神社の「アジスキタカヒコネ命神(味耜高彦根命神)」である。
この二社はそれぞれ「下ガモ社」「上(高)ガモ社」と通称され、「上(かみ)」「下(しも)」の対になっている。
この崇高なる「カモ」という地名が同様の地形を持つ京都北東部にも名付けられ、そこにも「上賀茂社(上賀茂神社・賀茂別雷神社)」「下賀茂社(下鴨神社・賀茂御祖神社)」がある。今では京都の地名として有名となった。
京都の上・下賀茂社は賀茂氏の氏神とされるが、「上賀茂社(上賀茂神社・賀茂別雷神社)」が「カモワケイカズチ命神(賀茂別雷命神)」を祀り、「下賀茂社(下鴨神社・賀茂御祖神社)」が別雷命神の母である「タマヨリヒメ命(玉依姫命)」と外祖父の「カモタケツヌミ命(賀茂建角身命)」の二神を祀る。
◆◇◆葛城氏の栄光と挫折
大和の葛城地方は、天皇家と深い関係を持つ葛城氏の本拠地である。かつては大王家に対抗できる最大の豪族であった。
しかし、歴史の中に葛城氏の栄光は消されていく。なぜ消されなければならなっかたのであろうか? 出雲神話の「国譲り」説話と何か関係するのであろうか?
葛城氏は、大王(のちの「天皇」)家確立後、葛城「臣」となるが、かつては大王家に対抗できる最大の豪族、あるいはもう一つの「大王家」であった可能性がある。
『記・紀』編纂に当たり、過去のこととは言えども葛城氏の真実を明かすことは、天皇家がかつては一豪族であったことを傍証してしまう危険も孕まれている。
氏姓制下での豪族的「大王」が、律令制下での絶対的「天皇」となった七世紀後半から八世紀前半にかけての時期(大化改新、大宝律令施行、平城京遷都、記紀成立などが含まれる)、天武天皇の「宗教改革」により、律令制の「新秩序」のもと神祇制度は整備されていく。その中で徹底的に消されなければならなかった標的の第一が葛城氏の神であったと考えられる。
葛城地方の葛城坐一言主神社の祭神は、「一言主神」である。この神に関する記述は、『記・紀』の神代にはないが、初見は、雄略天皇四年にあり、雄略天皇が葛城山に狩りをしに行ったとき、自分たちの一行とそっくりの一行に出くわす。
その時、雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言ったと記されている。
そして、『続日本紀』(巻二十五)になると、この時「一言主神」は天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて、土佐に流されてしまった、と記されている。また、『土佐風土記』によれば、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたと記されている。
この一言主神は事代主神であるともされている。が、しかし、古くから鴨の水辺で折目ごとに祀られる田の神というのが元々で、後に事代主神の「言代の神(古代の言霊信仰に関係があり、 託宣の神、言行一致の神としての性格)」という属性から同一神とされることになり、葛城氏・鴨氏に祀られるようになったようだ(皇室の外戚として勢力があった大豪族葛城氏の奉祭神となったのであろう)。
一言主神の出自や実体は、なお謎に包まれていますが、一部の文献には、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の子であると書かれているようだ。
さらに、葛城地方の葛城氏が奉斎する下賀茂・鴨都味波神社の祭神も「コトシトヌシ命神(事代主命神)」である。葛城地方においては、「アジスキタカヒコネ命神(味耜高彦根命神)」に並ぶ重要な神とされている。
事代主命神は大国主命神の子とされ、「葦原中津国」で父を助けて国政に当たり、「国譲り」を父にすすめたという。
コメント
私も一言主神に関しましては純粋には葛城氏・鴨氏の始祖ではないとにらんでいます。
葛城氏の末裔である役小角にいたっても一言主神とやりあうといった矛盾した部分からも推察されます。
かといって一言主神のルーツに関してはおっしゃるように本当に謎めいてはいますが日本古来の神ではないという気も致します。
ご存知だとは思いますが高倉下(=天香具山尊)は板東においては「オオマトノツノカミ」として「占いの神」とされ祀られています。
そして鹿の骨を使う占いである。。というところがポイントでもあります。
https://japanmystery.com/nara/hitokoto.html
葛城一言主神社
【かつらぎひとことぬしじんじゃ】
葛城の地は大和朝廷の黎明期における中心地であったとされる。いわゆる“欠史八代”と呼ばれる綏靖~開化天皇までの時代 には宮が置かれていたとされる。また葛城一族は武内宿禰を祖として鴨・蘇我・巨勢氏などの有力豪族に分かれていった。いわゆる古代日本史の大きな鍵を握るエリアなのである。
この葛城一族の神とされるのが【一言主神】である。ところがこの神様はかなり出自が怪しいのである。一言主神は雄略天皇との遭遇という有名なエピソードで初めて登場する。しかもこのエピソードは不思議な変遷を辿るのである。
『古事記』によると、葛城山で雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団と出会う。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したという。
ところが、『日本書紀』になると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになる。天皇と神とが対等の立場で描かれることになる。
さらに『続日本紀』に至っては、雄略天皇は事もあろうに、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したのである(ここまで遠くに流刑となった神は他にはいない)。
ではなぜここまでこの神に対する天皇の態度が変貌したのだろうか。古代の最大勢力を保っていた葛城氏が滅びるのは、雄略天皇の時代である。天皇による武力制圧である。その事実を神話ではあるが、大仰に書ける環境が整ったというのが真実である。
<用語解説>
◆欠史八代
綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の2~9代の天皇は、実在していなかったという古代史の説。初代神武と10代崇神の和名が同じであることなどから多く支持されている。逆にこれらの天皇は葛城地方にあった王朝に属し、崇神以降とは一線を画する政権であったとする実在説もある。
◆一言主神
神代の記述には現れず、雄略天皇の事項で初めて登場する神。扱いが粗略になっていく展開は、上に書いたままである。さらに『日本霊異記』では、醜い顔の神であり、役行者に使役される身分にまで貶められている。
おそらくこの一言主神は事代主命と同じ神であると推測される。『古事記』において事代主は大国主命の息子として国津神のサイドに組み込まれてしまったため、葛城氏系の祖神を新たに創出する必要性があって登場したのであろう。
現在では、一言であればどんな願いでも叶えてくれる神として信仰を集めている。総本社がこの葛城一言主神社となる。
◆『続日本紀』
延暦16年(797年)に完成。『日本書紀』に続く勅撰史書。この時代には葛城系の貴族は賀茂氏を除きほとんどが没落しており、代わって三輪系(崇神天皇後の政権エリア)の藤原氏が台頭している。このあたりの政治的な権力バランスが、一言主の扱いに影響していると言える。
◆◇◆「葛城」と「高木の神」
「葛城」という地名には、最高霊格を持つ「タカミムスビ神(高皇産霊神・高御産巣日神・高木の神・日の神)」に通じるものがありそうだ。また、葛城の「高天彦神社(たかまひこじんじゃ)」の祭神は「タカミムスビ神(高皇産霊神・高御産巣日神・高木の神・日の神)」である。
すると、葛城氏とタカミムスビ神には、『記・紀』には語らない何かがあるのであろうか?
「葛城」の「葛」は蔓(つる)の「かずら」と思いがちであるが、落葉種の高木「桂」を表すのではないかともされている。とすると、「葛城」とは「高城=高木」と考えることができる。また、「葛城の神」とは「高木の神」ということも考えられそうだが・・・。
「高木の神」は最高の皇祖神である「タカミムスビ神(高皇産霊神・高御産巣日神)」に通じることになる。しかも、葛城の「高天彦神社」の祭神は「タカミムスビ神(高皇産霊神・高御産巣日神・高木の神・日の神)」なのだ。
そして『記・紀』神話などの日本神話で、桂の木が出てくるときには、天上界から地上界に降る時の舞台設定として登場し、神使(しんし・かみのつかい)は桂の木に留まるという共通点が見受けられる。
例えば『記・紀』神話の「国譲り」説話の際、高天原の思金神が鳴女<なきめ>という名の雉(きじ・神使)を葦原中津国に遣わして、天照大神が派遣したアメノワカヒコ(天若日子・天稚彦命)の様子を窺わせる。葦原中津国に着いた時、雉はまず天若日子の家の庭の湯津楓(ゆつかつら)の木(桂の木)に留まる。
また、このアメノワカヒコ(天若日子・天稚彦命)の話には「還し矢」説話がある。それによると、高天原の神使である雉鳴女はアメノワカヒコ(天若日子)に「あなたの使命はどうしたのです?」と問いただす。すると、天若日子は弓矢で雉鳴女を射殺してしまうのである。
この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢をタカミムスビ神(高皇産霊神・高御産巣日神)が拾い、見るとそれは自分が天若日子に渡した矢であった。そこでタカミムスビ神は「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って投げ返す。
すると、なんと天若日子の胸を射抜き死んでしまうのである。これを「還し矢」というそうだが、このようにタカミムスビ神が関わってくる。
スサノヲ(スサノオ)
◆◇◆葛城地方と「土蜘蛛」
大和の葛城地方は、天皇家と深い関係を持つ葛城氏の本拠地である。また葛城氏は、かつては大王家に対抗できる最大の豪族であったようだ。
この「葛城」という地名は、そもそもどこから来たのであろうか? また、この葛城地方には「土蜘蛛」の伝承が残されている。この「土蜘蛛」の伝承は何を意味するのであろうか?
『日本書記』には、昔、この地に朝廷に従わない胴が短く手足の長い「土蜘蛛族」がおり、皇軍が植物の「葛(かづら)」を編んだ網で捕らえ平定して、「葛城邑(かつらぎむら)」としたと記している。
葛城山の一言主神社の境内には「土蜘蛛塚」という塚があり、そこは土蜘蛛を頭と胴と足を三つに切って埋めた所だと云われている。
また、すぐ近くには、土蜘蛛(赤銅色<あかがねいろ>をした八十梟帥<やそたける・八十建>とも)が住んでいたとされる「蜘蛛窟(くもくつ)」もある。
古代日本では土蜘蛛とは朝廷に従わない先住民を蔑視した呼び名であったが、中世には人の怨霊が化けた妖怪として登場する。
土蜘蛛は、中世の軍記物語『平家物語』では武者の源頼光の病床に現れるが、頼光に斬りつけられ、葛城山に追いつめられて退治されたりする。
また、歌舞伎・『土蜘』にはこうした台詞があります。「 我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの」。
このように、葛城山など(大江山にも)に残る「土蜘蛛」のイメージは、「鬼」のイメージとも重なり、支配者を悩ます「まつろわぬ」存在であったようだ。
鬼・土蜘蛛退治の伝説は古典芸能の題材となり、朝廷による「まつろわぬ」者たちへの「征伐」戦の象徴として、こうした物語(鬼・土蜘蛛退治の伝説)が繰り返し、後世に語られるようになった。
コメント
葛城のことはうすボンヤリと知っていましたが、「葛城王朝」は初めてききました。
> 葛城山の一言主神社の境内には「土蜘蛛塚」という塚があり、そこは土蜘蛛を頭と胴と足を三つに切って埋めた所だと云われている。
これとよく似た伝承が、古代の紀伊名草邑にあります。
名草戸畔(なくさとべ)の伝承です。
名草戸畔(なくさとべ)は、神武東征のとき、神武天皇に殺されたと、一言だけ記されている人物です。日本書紀に以下のようにあります。
巻第三 神武天皇即位前紀午年五月六月
六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔(ついたち)
丁巳(ひのとのみのひ)に
軍(みいくさ)、名草邑(なくさむら)に至る。
則ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(ころ)す。
戸畔、此をば妬顰(とべ)と云ふ。
この、名草戸畔(なくさとべ)は、頭、胴、足に切断され、3つの神社に葬られているという、伝説が今も残っています。
同じような伝説が、葛城にあるとは驚きです。
名草戸畔(なくさとべ)について、いろいろ調べてブログにアップしていますので、ぜひいらしてください。
http://blog.livedoor.jp/nagusatobe/
>これとよく似た伝承が、古代の紀伊名草邑にあります。
>名草戸畔(なくさとべ)の伝承です。
土蜘蛛については『 日本書紀 』 神武(じんむ)天皇即位前紀己未年二月条に、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が天皇に帰順せず、天皇に討たれたとあるのが初見です。
続けて「又 高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」とあります。
天皇に反抗した土着の首長たちを、蔑視する意味で使われているのでしょうね!
また土蜘蛛は『 日本書紀 』 以外のも、『 豊後国風土記 』はじめ各国の「風土記」にも度々登場します。
天皇に従わず滅ぼされていった土着の民の説話が、土地土地の残されていったのでしょう。
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