大籠のキリシタン殉教と千松兄弟に託されたメッセージ

山の神=十二の神=キリスト教???

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大籠のキリシタン殉教と千松兄弟に託されたメッセージ より

この記事は、岩手県藤沢町大籠という地方に伝わる、千松兄弟という英雄の物語について調べたものです。前回の記事(製鉄と信仰の地「大籠」、千松兄弟とは)で、千松兄弟とは、後藤寿庵と孫右衛門神父であったとの仮説を提起しました。それについて、今回考察してみます。前回同様、ぜひこの記事も信仰と殉教の歴史を伝えている大籠の人達に読んでいただき、コメントを頂けたらと思います。また、関連した情報もコメントでお聞かせください。

大籠と後藤寿庵の関係

大籠の町から県道295号を車で北に30分程の所に、藤沢城の跡があります。天正18年(1590年)まで岩渕近江守、秀信がここの城主として、陸中東磐井郡藤沢を治めていました。そして現在の大籠は藤沢町内にあります。

岩渕秀信が城主であった時代の大籠には、後に烔屋八人衆と呼ばれた棟梁家のうち、千葉土佐(検断畑屋敷)、須藤相模(千松屋敷)、佐藤淡路(左沢屋敷)、佐藤治(際畑屋敷)が、すでに製鉄を始めていました。このことは、地元が出版している資料(1)にある烔屋八人衆の系譜から分かります。大籠のすぐ近くには遠野城があり、ここの城主は千葉一族である馬籠氏でした。烔屋八人衆のまとめ役であったと考えられるのが、同じ千葉氏族である千葉土佐です。

藤沢城主の岩渕氏も遠野城主の馬籠氏も、共に葛西晴信に仕えていました。葛西氏は製鉄を興し鉄砲の自主生産を盛んに行おうと考えていたようです。1575年の長篠の戦いで、織田信長が鉄砲を大いに利用したことが勝利につながったように、この当時から鉄砲は戦いにおいて重要な武器になりつつありました。先見の明をもって、大籠の製鉄を盛んにしていこうとしたでしょう。

ですが北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の奥州仕置により、天正18年(1590年)に葛西晴信、そしてその家臣であった岩渕氏、馬籠氏も共に亡ぼされててしまいます。

葛西領内の城主であった首藤伊豆(沢屋敷)、佐藤丹波(中野屋敷)、佐藤肥後(上千松屋敷)が、この葛西家滅亡時に大籠に移り、それぞれが烔屋の棟梁となります。彼らは岩渕秀信とも親交があったでしょう。ちなみに、もう一つの棟梁家、沼倉伊賀(上野屋敷)を含めて、烔屋八人衆は全て武士だったようです。このことも、同じく資料1にある系譜から分かります。

秀吉の奥州仕置時に、岩渕秀信の三男、幼名で又五郎も藤沢城を追い出されました。その後、又五郎は諸国を放浪し、そして南蛮貿易の本拠地長崎へ行きます(資料2)。この又五郎、後の名前が後藤寿庵です。又五郎は小さい頃から、大籠に烔屋があることは知っていたでしょう。そして、実際に大切な製鉄産業の地を訪れたことも度々あったと思います。又五郎が諸国を巡った後に長崎に向かったのは、新しい文化・技術に興味があり、世界を知りたいという思いがあったからでしょう。

信仰との出会いと新技術の知見

又五郎がキリストの教えを聞いたのは長崎にいる時期だったようです。豊臣秀吉が1587年に伴天連追放令を出した後のことであり、すでに宣教師は表立って宣教することは控えていた時でした。

慶長元年に五島列島の宇久島に渡り、ここで洗礼を受け、寿庵(洗礼者ヨハネ)と名乗り、五島寿庵と名乗るようになります。同じ年には長崎西坂において、秀吉の命によってキリスト教信仰のために二十六人が磔に処刑されています(長崎二十六聖人)。寿庵が洗礼を受けた詳しいキッカケや動機は不明ですが、信仰を表にするとが危険な時期でのことで、自ら選び、信じてのことだったのは確かでしょう。

諸国を巡っている間に寿庵は様々な知識を得たようです。後に伊達政宗から胆沢郡水沢町の見分村を拝領するのですが、「ここはアラビアの砂漠のようなところである」と、1615年に寿庵を訪ねたデ・アンジェリス神父が語っています。寿庵はその荒地を肥沃な土地にし、人々の暮らしを豊かにするために、胆沢川の水を利用した大水路の大土木工事を行います。また寿庵は見分という地名を福に満ちた土地であるようにと福原に変えました。後に述べますが、寿庵の名前はキリシタン禁教下時代を通じて、日本での記録から消えてしまいます。現在でも「寿庵堰」としてその名前が残っているのは、当時の人々が余程感謝していたからでしょう。この用水路が完成することで、実際に福原は豊饒の地になりました。後の世、1924(大正13)年に、この用水路の建設への貢献を評して、大正政府から寿庵に従五位が贈られることになります。

また、寿庵は新たな製鉄法に関しても学んでいたと考えられます。中国地方では、天文年間(1532 - 1554年)より、鉧押し(けらおし)法によって千種鋼の生産が始まっていました。生産されたケラの良い部分は玉鋼(たまはがね)と呼ばれるようになり、日本刀など高級刃物の原料にされるようになります。それまでは、時間がよりかかり生産性の低い銑押し(ずくおし)法で行われていました。また、慶長年間(1596 - 1615年)より秀吉の奨励もあって、日本刀の主流は千種鋼を元にした新刀が主流になります。この新刀への変化を、寿庵は西日本諸国をめぐって知っていたでしょうし、新しいけらおし法による製鉄技術を、その旺盛な好奇心から学んだことでしょう。なぜなら、藤沢城にいた頃には、すぐ近くの大籠で製鉄が行われていたのですから。

旧藤沢城から大籠へ向かう県道295号線にハシバ首塚と呼ばれる場所があります。ハシバは架場(はせば)の意味と考えられています

旧藤沢城から大籠へ向かう県道295号線にハシバ首塚と呼ばれる場所があります。ハシバは架場(はせば)の意味と考えられています。キリシタンが処刑された後、首を架掛(はせが)けにして晒された場所とされています。この傍らに、斬首の理由と共に埋められたそうです。今では祈りが描かれた案内があります。

指導者として帰還

関ヶ原の戦いが終わった頃か、寿庵は長崎から江戸に出ていたようです。非常に活動的な人でもあったのですね。その地で、メキシコにも渡りキリシタンでもある商人田中勝助と知り合うことになります。その頃、海外貿易を考えていた仙台藩伊達政宗が、支倉常長に命じてこの田中を訪れさせたところ、田中が寿庵を推薦しました。政宗は寿庵を家臣後藤信康の義弟として臣下の列に加え、胆沢郡水沢町の見分村(南福原)に千二百石を与えます。寿庵が自身の苗字を五島から後藤に改名したのはこの時だったのでしょう。これは慶長17年(1612年)の事で、藤沢城を去って22年後の事でした。

寿庵が新たに知行地として得た水沢町から藤沢城跡までは車で約一時間の距離です。もちろん当時はもっと時間がかかったでしょうが、活動的な寿庵は父が城主をしていた城跡、そして大籠にも訪れたでしょう。見違えるほどに立派になり、伊達政宗の家臣として晴れて戻ってきた旧藤沢城主の息子である寿庵が、その父親を知る製鉄の町大籠の人々に、新たな製鉄法の指導を行なったのです。

寿庵が1615年の大阪夏の陣に鉄砲百人組を指揮して活躍したことが伊達家の文章に残っています。この鉄砲隊が使った鉄砲は、大籠のたたらでつくられた鉄から生産されたと考えるのも飛躍ではないと思います。父の時代に大籠で製鉄が初められたのは、鉄砲の生産のためでもありました。大籠の鉄で鉄砲を作ることは寿庵の願いでもあったでしょう。

大籠カトリック教会の近くにある上野刑場

大籠カトリック教会の近くにある上野刑場。1640年にキリシタン94名が所成敗となった場所。何れの刑場においても処刑された遺体の処理は厳しく禁じられ、約60年たってから埋葬することを許されたという。地蔵が建っているが、よく見ると赤子を抱いている様子であり、潜伏キリシタンが持っていた幼子イエスを抱いた聖母マリア像にも見える。

キリストの教えの伝道者達

さらに寿庵は大籠の人々が今だかつて聞いたことのないような、魂の救い、キリストの教えを話しました。赦し合い、支え合うことの大切さを説き、大籠の住民にお互いに助け合うことの大切さを自ら率先して範をしめし、心温まる共同体となるよう指導していったのです。

そして、寿庵の傍らには兄弟のような人がいました。孫右衛門(フランシスコ・バラヤス)神父です。孫右衛門神父は1615年にスペインから禁教下の日本へ来ました。江戸幕府のキリシタン禁教政策にも関わらず、伊達正宗が許容していた仙台に逃れ、寿庵の傍らで人々に信じること、希望を持つこと、そして愛することの大切さを教えていました。伝説の千松兄弟にあるように、千松川の開けた場所で、寿庵と孫右衛門神父は、たたらで働く人々と共に感謝の祈りを捧げた風景があったのでしょう。それは、とても美しい風景だったのではないでしょうか。

大籠へ働きに来る人を通じて、近隣の村にもその教えは広がっていきました。そして、助け合って暮らす人達の上に安らぎと喜びがありました。

大籠 元禄の碑。殉教の後約60年の後、地元の郷士(武士階級)が遺骨を集め埋葬し、供養碑を建てました。

仙台藩禁教へ

残念ながら、その地上の平和は長くは続きませんでした。徳川家光が将軍になった1623年の12月4日、権力を諸藩へ誇示するため、人通りの多い東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から品川に至る小高い場所で、信者50人を見せしめのように火刑にしました。その三日後の12月7日に、家光は正宗を江戸城二の丸に迎え、茶を振る舞った席で、奥州のキリシタン禁教を直談したのです。政宗は、間近で起こったキリシタン処刑の戦慄と幕府の圧力についに屈してしまい、この時から仙台藩は禁教へと舵を切りました。

それでも寿庵を惜しんだ政宗は、1)一刻たりとも神父を邸に留めないこと、2)誰にも信仰を説かず、また信仰を堅持するよう勧めないこと、3)信仰を守ることを許されていることを内密にしていること、その3つの条件を守る誓詞を出せば、寿庵自身は信仰を守っても良いと妥協を持ちかけたのです。

ですが、これは寿庵にはとても飲める条件ではありませんでした。育んできた仲間を見捨て、自分だけが密かに信じることは、信じること、希望すること、愛することを説いた神の信仰ではなくなります。その後の様々な誘惑と圧力にも屈することなく信仰を貫いた後藤寿庵は、最後には住んでいた水沢の家を略奪、放火され、その後の消息は分からなくなります。そしてその存在は日本の歴史上から抹殺されてしまいます。

寿庵が再び仙台地方で知られるようになったのは、明治13年にクラッセの「日本教会史」が太政官で翻訳され、日本西教史として公刊されてからのことです(資料2)。

寿庵がいなくなった後も、孫右衛門神父は密かに大籠において信仰の灯火を照らしていました。ですが1939年に密告によってついに捕まり、江戸に送られ火あぶりに処せられます。

千松兄弟として伝えられた思い

大籠において、多くの人達が信仰を守り通して殉教しました。名は残されていなくとも、強い人達でした。

残された人々は、拷問と様々な肉体的精神的な苦痛により脅され、悲痛な思いで禁教政策に従わなくてはならなかったのです。

それでも大籠の殉教者達と寿庵と孫右衛門神父の二人は、大籠の人々の心の中に生き続けていました。千松川の辺りで、信仰、希望、愛を説いた二人の姿と、共に働き感謝の祈りを捧げた、殉教者達との平安で幸せな日々の思い出は懐かしくも強く生きていました。大籠の人々と殉教者とは強い信仰で結ばれていました。そして、二人の殉教者の名前を表すことはできないが、何時しか彼らが千松兄弟として語られるようになったのではないのかと、私にはそう考えられるのです。そこには、信仰と心の自由への希求が伝えられているのではないでしょうか。

大籠 千松兄弟の兄、大八郎の墓と言われている場所。であれば、キリシタン墓地とも解釈できる聖なる丘

次回は、残された大籠の人々について、またさらに考えてみようと思います。

参照

1. 大籠の切支丹と製鉄第三版 藤沢町文化振興協会 

発刊の挨拶を藤沢町教育委員会委員長の岩渕氏が

「本書が末永く皆様方にご愛蔵あれ、ご研鑽の一助となれば幸いとするところです。」

と述べられています。また

「先輩が残した貴重な事業や資料を多くの方々にご覧頂き、これを正しく理解し、新しい文化創造のために活用していただくことによって、文化財に対する保護意識のこうように役立てば幸いですと」

藤沢町文化振興協会会長の首藤氏が、第三版発行にあたりで述べられています。貴重な資料を残していただいた地元の方々に感謝します。首藤氏は烔屋八人衆の首藤伊豆の御子孫であられるようです。岩渕氏は藤沢城城主だった岩渕家と繋がりがあられるのでしょうか?

2. 日本キリシタン殉教史、片岡弥吉全集 発行2010年

http://www.gregorius.jp/presentation/page_12.html

オリュンポス十二神

オリュンポス十二神は、ギリシア神話において、オリュンポス山の山頂に居住すると伝えられる十二柱の神々です。ゼウスを主神として、ヘスティア、ヘラ、ポセイドン、デメテルの四神はゼウスの姉と兄、アルテミス、アポロ、アテナ、ヘパイストス、アレス、アプロディテ、ヘルメスの七神は異なる母から生まれたゼウスの子供です。

■系譜

クロノスは父であるウラノスを追放しますが、自分も父同様、子に殺されるという予言を受けたため、子供が生まれるたびに食べてしまいました。 最後に生まれたゼウスだけは、母のレアがゼウスと偽って石をクロノスに食わせたために助かりました。ゼウスはクロノスに兄弟たちを吐き出させ、彼らと力をあわせてクロノスなどのティタンたちを倒しました。その勝利によって主神ゼウスの一族である十二神は神々の世界で卓越した地位を獲得しました。

■ゼウス

ゼウスは、神々の王であり、天候、特に雷を司る天空神です。クロノスとレアの末の子で、ハデスとポセイドンの弟です。父クロノスの腹から兄弟たちを救い出し、協力してクロノスなどのティタン神族を倒しました。支配地をめぐって二人の兄たちとくじ引きをし、天と地上との支配者となりました。正妻は姉であるヘラですが、レトやデメテル等の神々をはじめ、多くの人間とも交わっています。ローマ神話のユピテル(ジュピター)に相当します。

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