金山一揆


「火怨の蝦夷 アテルイ」 あらすじ動画...によると 金が陸奥で大量に採れたのが蝦夷征伐の発端となったとのことです。

http://sendai-oldlocal-histry-takakura-kiyosi.saloon.jp/mimibukuro_kinzanikki.html

金山一揆

金山一揆は、文禄3年(1594)に仙台領東山地方千厩(岩手県東磐井郡)で起こった。豊臣秀吉の命によって派遣された3奉行は、産金の税を年1回から3回に増やすことを命じました。これに対して金堀たち3000人が白山堂(千厩町松沢神社)に集まり、神水を呑み誓約、一揆に発展した。

 金山肝入白石十郎左衛門は、事態を収拾するため、まず秀吉配下の3奉行を安全な処にかくまい、治府岩出山(大崎市)に急報した。重臣たちは会議を開き、黒木肥前を将として鎮定軍を現地に派遣した。黒木肥前は一揆の首謀者を切り捨て、頭取38人を見せしめのために磔にし、一揆を鎮定した。

 この後、気仙沼の新城又三郎が、この一揆は政宗の陰謀であることを訴えたので、政宗への疑惑が深まり、伊達家の存亡に関わる問題となった。この疑惑を前記した白石十郎左衛門が身命を賭して上洛して申し開きをして伊達家を安泰に導くことが出来た。政宗はこの論功行賞として、下図のような鎧と兜を下賜した(米国ニューヨーク メトロポリタン美術館所蔵)。

 伝馬黒印状は、1595年(文禄4)に岩出山から千厩までの道筋の真山(岩出山町)、柳目(一迫町)、宮野(築館町)、がんなり(金成町)、中村(岩手県花泉町)の村々に伝馬役を命じたもので、終着駅千厩は記されていない。伝馬役とは、公用の通行や公用の荷物の運搬を送る義務が課された。

解読文《金山一揆文書》

一  文治三年東山千厩村白山堂え集会一件之事 (七巻 百番)

太閤様御代 貞山様岩手山御在城之砌、上使大橋八蔵等御三人」御下向御印判御朱印被相渡、其年ニ三ヶ度金子被召上候ニ付、金堀ニも三千」人及集会、致誓約神水を呑雖御訴訟依申上候段ハ

貞山様可為御内意かと上使怪被 思召、依之東山白石豊後抔を始、牡鹿」大原浜之掃部左衛門抔と申者共妻子等迄証人二相立候得共、疑敷被 思召」候ニ付、奥中之頭立候者共三拾八人召捕、岩手山ニて磔ニ被相行、上使之」旁え被懸御目候、其節之証人ハ葛西家之浪人新城又三郎と申者」伏見え罷登、実ハ政宗殿庭意を以一揆企候由、目安箱指上候ニ付、」政宗公上使一同ニ可罷登由被仰出候ニ付、御登之其節右豊後抔罷登」申上申分相立候所、此時政宗公悉く御危難なり、委細ハ姿見四ノ」七ニ有りと成行聞書ニあり 


松澤神社

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松澤神社 金山一揆集結の地   より

現在の松沢神社となったのは明治時代の神仏分離令によってのことで、神明造の社殿(明治三十四年)には伊弉冊命を主神に誉田別命が祭られていました。

それ以前は、白山大権現を勧請し、ときに永正年中金野土佐家中の僧正を招き白山永正寺観音院といいました。

しかし、文禄三年の金山一揆で建物及び什物は焼失してしまい、神子ノ沢より御輿を担ぎ、寛文三年に祭祀して白山光龍寺となったのです。

当時の再建された本殿は、明治の神仏分離令により北ノ沢八幡神社に納められています。

この地は、十六世紀末、金山の租税に耐えかねた農民、旧葛西家の浪人等が金山一揆※1を起こしました。その集結場所でもあります。

※1 金山一揆

豊臣秀吉は、小田原城攻略の二年前、「天正大判」という金貨をつくられせています。

我が国で金貨が使われ始めたのは、このころであります。新しい武器として鉄砲が登場し、ことさらに戦争に金のかかるものになっていました。

そして天正十九年(1591)、朝鮮出兵の命令が出ました。

翌文禄元年(1592)、東山・江刺・気仙・本吉の砂金採掘のため、秀吉は三人の金山奉行を発令しました。昔から金の産出を誇っていたみちのくの金山に、秀吉が目をつけないはずがなかったのです。

 三人の金山奉行は、金堀たちに紙の札(のちに木札)を渡しました。この鑑札を持つものだけが自由に金を掘ることができましたが、その代わりにお役金(税金)を納めなければなりませんでした。

豊臣政権は、お役金の納入を年三回といいわたしたのです。

このお達しに、金堀たちは騒ぎ出しました。あまりにも重すぎる税金だったのです。騒ぎは、村から村へと広がり、集会が開かれました。

場所は千厩の白山堂。集まった人数およそ三千人といわれています。手に金堀道具を振りかざし、金山奉行にその不当を訴えるのでした。文禄三年(1594)十一月のことでした。千厩の白石十朗左衛門らが一揆勢の鎮圧に当たり、その適切な処置で一揆は鎮まったのです。

https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,3142,107,html  

室根神社特別大祭の歴史

蛇石の鳥居室根山は、海抜895.4メートル、北上山地の太平洋岸よりにあり、山裾は室根地域、大東地域、千厩地域、気仙郡にまたがっており、昔から三陸沿岸の漁師達は出漁の時いつも沖でこの山を目標にするといいます。

 古くは桔梗山、また卯辰山、また、鬼首山などと呼ばれていました。養老2年(718年)紀州の熊野から神霊を勧請された時、牟婁峯山と改められ、その後、安元元年平泉藤原秀衡が鎮守府将軍のころ室根山と改めたものといいます。

 8合目に室根神社があり、境内には県下の高山中唯一のものとされている千古の老杉が枝を交え、実に幽玄の聖地であり、真に悠久神代の天地に誘う森厳の台地です。

 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊弉冉命、新宮には、速玉男命と事解男命を祀っています。

室根神社本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから1287年前のことです。

 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。

 しかし、蝦夷は甚だ協力で容易にこれを征服することができなかっつたので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。

 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。

 天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5カ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。

 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津神神社)です。

 多賀城にいた鎮守府将軍大野東人は、白馬17騎の諸郷主を召集してこの神輿を出迎え勅使から天皇の勅書を受けた後、神輿にお供えしてきた公卿の宿所をつくり、神主に命じて塩でおそなえ物を清め、釜を据え湯の花を捧げて、どこの地に神様を祀るか神意を伺ったところ「磐井郡鬼首山(室根山)は、従古日本武尊が鬼神を征服し、始めて皇業が行われた地なので、この峯に鎮座して天下長久を守り、人民を利益せよ」とお告げがありました。

 それから行列をつくり、将軍大野東人が御先乗りとなって、勅使はみこしにつきそい、神主郷土が白馬でお供しました。紀州からお供した数百人が前後につらなり、鬼首山を目指して進みました。途中街道で「おりかべの翁」が五穀の飯を供え、それを共の人々に食べさせました。

 熊野神の行列を伝え聞いたおりかべの郷長今上速留は、おおいに喜んで郷民二十余人を引きつれお迎えし、みこしに供して森に入ったところ郷民百数人が集まって、笹を敷き、神を拝み、勅使を迎えました。この森を「ささふたぎ」と言うようになりました。

 これから進んで9月11日おりかべの郷につき、丸木の柱に松の葉で屋根を葺き、仮宮をつくり安置しました。このところを荒谷といいます。

 ここから鬼首山を踏み分けて登り、8合目に御社地を構え、神穀殿を造り仮宮から還宮しました。

 これから鬼首山を改め牟婁峯山と言うようになり、後世に室根山と書くようになりました。室根山に勧請されたのが、養老2年陰暦9月19日です。元年が閏年でその翌年の勧請があったところからその古例を守って閏年の翌年陰暦9月19日前後の日を大祭としています。

 この祭事は天平元年(729年)からの起源で1276年も前から行われ、嘉応年中(116~1170年)から祭礼がある毎に京都より勅使が下向しています。勧請のとき供奉の神士も土地に居住し、いまも別当館、公家館などの遺跡があり、その子孫と伝えられ一門と言われる系統の人が代々祭りに神役をつとめ、古例をたがえず守り伝えられています。このことは、おそらく他にみることのできない祭事です。


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