竜淵に潜んで宇都宮城址 高資
http://www.utsunomiya-jo.jp/tale_in_1000/
宇都宮市制110周年を迎える平成18年度、
宇都宮城が約140年ぶりに城址公園としてよみがえります。
よみがえった後、宇都宮の街はどんな変貌を遂げるのでしょうか。
宇都宮の新しいシンボルが完成する前に、まず宇都宮城の歴史を知っておきましょう!
http://www.utsunomiya-jo.jp/jimkyoku/index.html
宇都宮城の復元活動について
復元された宇都宮城の役割は、市民の心のよりどころ=市のあたらしいシンボルです。
宇都宮城は、「憩いの場・コミュニティ」としてだけでなく、あらたな城址公園を支える「3つに柱」を掲げ、現在の復元活動が進んでいます。
写真の線で囲まれた宇都宮城西側部分を復元します。
▲線で囲んだ部分が復元されます。
復元された宇都宮城(宇都宮城址公園)は、歴史建築物の再現にとどまりません。
園内には緑が溢れ、あらたに宇都宮の街を静かに見守るシンボル・スポットとして、人々が集う公園になります。
また、復元活動へ参加することにより、市民自らがつくりあげた城として、誰もが親しみを持てる公園となるでしょう。
復元は二つの櫓と土塀・土塁・堀
現在の宇都宮城址公園の範囲内には、土塁・堀と清明台(せいめいだい)・富士見櫓(ふじみやぐら)という二つの櫓がありました。
とくに清明台は天守閣の代わりをしたものといわれています。
復元された宇都宮城には、雄大な土塁の上にそびえる二層櫓を目にすることができます。
宇都宮城の復元活動「3つの柱」
1.宇都宮の歴史とふれあう公園
発掘調査結果や城郭資料に基づき、歴史性を重んじた伝統的な技法・材料を用いて、宇都宮城の一部を復元します。公園そのものが歴史教材として、将来の宇都宮を担う、次世代の子どもたちへ、郷土の歴史を伝えていきます。
2.都市防災公園
災害時の都市部の避難場所として位置づけ、防災公園として整備していきます。
避難通路として、市役所と公園の間を「緑道」で結びます。
3.中心市街地の活性化
中心市街地の貴重な緑のオープンスペースである宇都宮城址公園の広場では、さまざまなイベント等を開催することができます。完成後には、宇都宮城の魅力に話題性が加わって、街に活気と賑わいをもたらします。
最近の宇都宮城の様子 http://www.utsunomiya-jo.jp/jimkyoku/index.html
工事の進捗・現在の様子(終了) http://www.utsunomiya-jo.jp/jimkyoku/index.html
宇都宮城址公園の施設概要 http://www.utsunomiya-jo.jp/activities/gaiyo_01.htm
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/citypromotion/kanko/meisho/jyiousi/1007284.html 宇都宮城の歴史 より
宇都宮城のはじまり(平安時代後期)
宇都宮城を築いたのは、藤原秀郷とも藤原宗円とも言われており、時代は平安時代後期と考えられています。
鎌倉時代から戦国時代
中世(鎌倉時代から戦国時代)の城主であった宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であるとともに、京都ともつながりが深く、5代頼綱(よりつな)(蓮生・れんしょう)は百人一首の成立にも深くかかわっていました。
日本中が戦乱に巻き込まれた南北朝時代から戦国時代、このころの宇都宮城は敵の攻撃に備えるため、堀と土塁を幾重にもめぐらせた守りの堅い城になっていきました。
宇都宮城をめぐっての戦いも行なわれ、城下町が焼かれたこともありました。
江戸時代
約500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、近世(江戸時代)には譜代大名の居城となりました。その中でも本多正純(ほんだまさずみ)は、城と城下町の大改造を行い、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を作り上げたと言われています。
将軍が日光にお参りする日光社参(にっこうしゃさん)。宇都宮城は将軍の宿泊場所となり、本丸には将軍のための御成御殿(おなりごてん)が建てられました。日光社参は幕府の威信をかけた大事業であり、城も城下町も大変なにぎわいだったと言われています。
戊辰戦争以降
宇都宮城は1868年の戊辰(ぼしん)戦争で建物の大半が焼失しました。堀も次第に埋められて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなりました。
http://www.pasonisan.com/rvw_trip/15-10-utsunomiya.html
今は外観復元した都市防災公園 宇都宮氏の居城、宇都宮城 より
清明台の直下にある水堀。復元された堀は17世紀前半に掘られたものと考えられている。古い文献では幅21.8mほどと記されているが、発掘調査では最大幅27mあったという。深さは最大で7mとのこと。
蓮池の再生がお堀の発掘で完了したのであれば なぜ 蓮の種はわざわざ採掘されたのでしょう??
宇都宮城址公園 - 宇都宮市立図書館
(Microsoft Excel)
www.lib-utsunomiya.jp/manage/.../5de8813e605d0.xls - キャッシュ
12, 1990, H2, 3, 2, 栃木, 210.1, 江戸時代城主の御殿跡か 礎石見つかる 宇都宮城跡発掘調査 4月に調査地を公開. 13, 1990 ... 23, 1991, H3, 11, 8, 下野, 210.1, 宇都宮 城調査 江戸以前の堀跡発掘 本丸跡一次発掘が終了 築城年は解明できず. 24, 1991 ...... 見た!?ハスの種探そう あす宇都宮城跡 ボーリング調査実施 市民の参加募る, 宇都宮城址公園 宇都宮城跡蓮池再生検討委員会 ..... 447, 2017, H29, 10, 1, 下野, 17, 210.1, あした 宇都宮城址公園 宇都宮氏の城紹介, 掘り出された中世宇都宮氏の城展.
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/43822
時空を超えてハス開花 宇都宮城の上蓮池跡から発掘の実
【宇都宮】宇都宮城の上蓮(はす)池跡から発掘されたハスが今年も、花を咲かせた。平出町の自宅で育てる市民グループ「宇都宮城跡蓮池再生検討委員会」(塚田宗雄(つかだむねお)会長)の印南洋造(いんなみようぞう)事務局長によると、一番花は28日に開花した。近く咲きそうなつぼみも二つあり、1週間ぐらいは楽しめるという。
同会は2007年から09年にかけて、かつての蓮池周辺を調査した。発掘した80個の実を調べた結果、古いもので1490年代、比較的新しいものでも1850年代の実であることが分かった。これらを印南事務局長が大切に育て、開花に成功したことから印南蓮と命名された。
今回、一番花を咲かせたのは1780年代のハスという。開花2日目の29日は青空の下、淡紅色のかれんな花が涼やかに風に揺れていた。
印南事務局長の自宅には80種200鉢のハスがあり、同会は7月16日午前8時ごろから、第10回観蓮会を開く。(宇都宮城の蓮の名は消え、なぜ印南蓮と名付けられたのでしょう?委員会からの委託で開花させたのではなく 印南氏の熱意で開花させた蓮だからでしょうか?いつの年代の蓮の実かがわかれば 委員会のニーズは満たされたということでしょうか?)
(問)印南事務局長028・663・1313。
https://www.sankei.com/region/news/181026/rgn1810260007-n1.html
宇都宮城「印南蓮」など研究成果発表 宇都宮大で植生学会
2018.10.26 07:06
宇都宮市の市民グループ「宇都宮城跡蓮(はす)池再生検討委員会」の印南洋造事務局長は宇都宮大(宇都宮市峰町)で開かれた植生学会の全国大会でポスター発表に参加、研究者に宇都宮城の蓮文化を紹介した。
同会は宇都宮城跡の蓮池再生を目指し、平成18年に発足。発掘調査で出土したハスの実を育成し、23年に460年ぶりに開花させ、「印南蓮」と命名した。蓮池と宇都宮の歴史を後世に伝えていこうと、ハスの写真や俳句のコンテスト、講演会などを続けている。
学会では、「宇都宮城蓮池跡の古植生の解析と蓮を活かしたまちづくり」と題し、同会の活動や研究成果について発表。千葉市の「大賀ハス」と「印南蓮」の経緯や調査方法を比較し、ハスの特徴を紹介すると共に、「大賀ハス」や「古代ハス」などの表記についても明確な定義が必要と提言した。
印南さんは「研究者たちに宇都宮城の蓮文化を発信できる機会を持てたことは良かった」と話している。
(松沢真美)
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