ツグミ・個と集団

http://www.forest-akita.jp/data/bird/45-tugumi/tugumi.html  

【野鳥シリーズ45 ツグミ、クロツグミ】

http://mukudori-bird.com/archives/150

【ムクドリは夕方になると群れをつくるのはなぜ?鳴き声は ?】

http://mukudori-bird.com/archives/35

【ムクドリが群れとなる時期とは!?】

https://www.axismag.jp/posts/2020/01/162166.html

【鳥の群れをモチーフに集団と個人のバランスを問うStudio DRIFTのインスタレーション「Flylight」】  より抜粋

なかでも照明インスタレーション「Flylight」は、ムクドリの群れの行動を再現した作品で、人間どうしの衝突、集団でいることの安全性、さらには個人の自由を表現しているという。

鳥は自由のシンボルだが、群れになれば見事なパターンを描く集団として飛び回る。「自己組織化」されたこの群れでは、1羽の鳥が先頭に立って飛ぶことはない。つまり、それぞれが周囲の速さや方向性を感じとって行動しているのだ。

しかし、私たちは集団に入れば安全を確保できるが、社会のルールに従って行動することを余儀なくされる。そして、個人の自由を選べば、社会の外で生きることを強いられる。「Flylight」はその完璧なバランスのありかを問うための作品だ。


https://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/d7cb480b4464d992e3d279b3196c0327

【本質的に群れで生きる人間のメリットとデメリットの特徴について】 


https://www.iwanami.co.jp/news/n28337.html

【人間の本質は何か『分かちあう心の進化』〈岩波科学ライブラリー〉(松沢哲郎)】より

人間の本質は何か.とても大きな問いです.これまでさまざまな観点からその答えが提案されてきました.直立二足歩行をする,道具を使う,言語をもつ,などが代表的な答えでしょう.

 人間にとって進化の隣人であるチンパンジーを長年研究し,近年はボノボ,ゴリラ,オランウータン,他のサルの仲間,他の哺乳類の仲間へと研究の視野を広げてきた松沢さんの答えは,「想像するちから」をもつことが人間の本質であるということでした.想像するちからがあるから,相手の心を理解し,今ここにないものを思い浮かべて他者に伝えようとする.そこから言語も芸術も生まれた,というのが松沢さんの考えです.

 この本では暴力の起源についても考察されています.人間にもっとも近いチンパンジーとボノボは,以前は同じ種と見なされていたほど外見は似ていますが,群れのメンバーどうしや他の群れとの関係は対照的です.チンパンジー社会は男性優位で,群れ内順位をめぐって男性が争い,隣り合う群れは敵対的で,ときには殺し合いにまで発展する.ボノボ社会は女性優位で,群れ内の順位をめぐる争いは少なく,隣り合う群れは平和共存する.人間はそうしたチンパンジー的な部分とボノボ的な部分をキメラのようにもっているとしたうえで,松沢さんは次のように問いかけます.

 「いま,この世界が再び緊張の度を増そうとしているとき,そうした人間の本性にもう一度,目を向けるべきではないでしょうか」


https://jijinews-kihon.com/mura-hachibu/

【「村八分」の由来から考える日本社会の私刑制度と共同体意識】  より抜粋

村八分の語源について

まず、村の共同体には、みんなで助け合うべき行為が10個ありました。

【共同体で助け合う10の行為】

 ①出産 ②成人 ③結婚 ④葬式 ⑤法事 ⑥病気 ⑦火事 ⑧水害 ⑨旅立ち ⑩増改築

「村八分にする」とは、これら10個の行為の内、「葬式」と「火事」以外の8つを断絶すること。

「葬式と火事の時は今まで通り手伝うよ。けど、それ以外(結婚・出産など)は一切無視するからね♡」

というのが、本来の村八分の意味のようです。

【日本の共同体 今と昔】

・村社会の日本:個人⇒家⇒村落⇒国

・現代の日本 :個人⇒(ネット社会?)⇒国


結婚・出産などを共同体外で行うということは 村八分の対象であったということでしょうか

結婚・出産を無視ということは 血縁関係を大事にする集落の アウトサイダー宣言と言えるのでしょうか?

この写真は陣屋の一角、長屋とされているところなのでしょうか?

天井を雲居としてや城の春  高資

 五島・富江藩陣屋跡ー 場所: 富江


http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/tomie.htm    肥前 富江陣屋    

富江陣屋は、富江港を見下ろす小高い丘に築かれていた。 現在の富江中学校グランドとなっている地が陣屋跡だ。 陣屋の案内板が、富江中学校の校舎とグランドの間にある道路の校舎側、富江小学校のグランド北西隅にそれぞれ設けられている。

 陣屋の遺構は、富江五島氏全盛期に築かれた石蔵が中学校グランド北側フェンスの外側に残されている。 屋根の部分は取り除かれているが、石造りの堅牢な蔵で、火薬・穀物倉庫として使用されていたとか。 また、近くにある実相寺山門は、陣屋の門を移築された門と云われている。

歴     史

 富江陣屋は、寛文5年に五島盛清よって築かれた。 盛清は、本家福江城主五島盛勝が家督を相続した時、盛勝が幼少であったため、叔父盛清が後見役を務めた。 

 盛清は、寛文5年に3千石を本家盛勝から分地され、交代寄合に列し、富江に陣屋を構えた。

 富江五島氏は、盛清以後8代続いて明治を迎えるが、6代連龍の時に全盛期を迎え、連龍は大番頭を務めている。 現在残る石蔵はこの連龍と代に築かれたもの。


http://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/tomie-jinya/    肥前・富江陣屋

形態

陣屋

歴史

寛文2年(1662年)五島盛清によって築かれた。 盛清は福江藩二代五島盛利の三男で、兄の三代藩主盛次が病弱であったことからその政務を代行し、没後は幼小で家督を継いだ盛勝の後見人として活躍、その功績によって三千石を分与され旗本交代寄合となった。

富江領は初代盛清から代々続いたが八代盛明のとき、朝廷より福江藩に合併して蔵米三千国を新たに支給するとの指示が降った。これに反発した領民たちが一揆を起こすなどの富江騒動が勃発、その結果、五島盛明は謹慎の後、禄百三十石の只の士族となり、富江藩は消滅した。

説明

富江陣屋は現在の富江中学校の北にある運動場の辺りに築かれていた。 陣屋の大手は東側にあり、大手門は現在の実相寺に移築されたが、部材は新調されたようである。陣屋石蔵が北側の民家の裏側に残っており、これが現存する唯一の遺構のようである。

西にある実相寺に大手門が移築され、その西にある瑞雲寺が富江藩五島家の菩提寺で累代の墓が残されている。

城主

五島盛清,五島盛朗,五島盛尚,五島盛峯,五島盛恭,五島運龍,五島盛貫,五島盛明

案内

富江中学校の校門脇に案内板が設置されている。


陣屋跡には生活空間は残されていません。









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