律令国家・日本の内実を問う試み。

https://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/08.html  【大化の改新】より

古代史最大のライバル対決

7世紀前半の飛鳥。豪族が支配する世から天皇中心の中央集権国家へと移り変わる歴史の転換期。実質上の政治の権限は蘇我氏の手に握られ、「日本」という国家の出発点・大化の改新が起こる。それは、波乱に満ちた幕開けでした。645年6月12日。時代の流れを大きく変える事件が起こります。時の天皇、皇極女帝の目の前で、時の権力者、蘇我入鹿が襲われたのです。首謀者は皇極女帝の息子、中大兄皇子。これが、蘇我入鹿暗殺です。なぜ2人は対決することになったのか。古代史史上最大のライバル対決、蘇我入鹿と中大兄皇子。大化の改新の幕が上がります。

跡継ぎを巡る後継者争い

642年1月。史上2人目の女帝、皇極天皇が誕生した時、2人の男の運命が大きく変わろうとしていました。ひとりは天皇の力をも凌ぎ、都が置かれた奈良の地を拠点にしていた豪族の後継者、蘇我入鹿。もう1人は、天皇家の有力な跡継ぎとして生まれた、中大兄皇子。一方の中大兄皇子は父、舒明天皇、母、皇極天皇という2人の天皇を両親に持つサラブレッド。片や入鹿は蘇我一族。天皇家との政略結婚でその勢力を拡大し、天皇家を凌ぐ力をつけていました。そのトップが蘇我入鹿でした。皇極天皇即位にともない、父、蝦夷から、国政の最高位、大臣(おおおみ)を与えられました。権力を手にした入鹿の非道ぶりに人々は恐れおののいたと言います。一方中大兄皇子は、完璧な血筋ゆえに後継者問題に巻き込まれる運命にありました。皇極天皇が即位した当時、皇位継承候補として名が挙がったのは4人。山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子で、入鹿のいとこ、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、皇極天皇の弟、軽皇子、そして中大兄皇子。中でも山背大兄王は諸豪族から厚い信頼を寄せられ、最も有力な皇位継承候補者でした。しかし、大臣の権力を譲られてまだ1ヶ月にも関わらず入鹿は、妹の息子、古人大兄皇子以外の他の皇位継承候補者の排除に乗り出すのです。これが入鹿と中大兄皇子の対決の幕開けです。中大兄皇子の祖父・彦人大兄皇子(ひとひこのおおえのみこ)は、次期天皇を約束されていた人物。しかし、入鹿の祖父、蘇我馬子に暗殺されたとの噂や、中大兄皇子の母、皇極天皇の愛人関係にあったとも言われていたのです。二人の関係を知った中大兄皇子が入鹿に憎しみを抱いたとしてもおかしくありません。蘇我一族によって祖父を殺され母も奪われた中大兄皇子。この時こそライバル誕生の瞬間でした。

#8 「蘇我入鹿 VS 中大兄皇子」

欠かせない一人の男

横暴な蘇我入鹿に対し中大兄皇子が立ち上がるのは1人の男との運命的な出会いがきっかけでした。飛鳥寺で行われた蹴鞠の席で脱げ落ちた中大兄皇子の靴を拾って渡した男。それは中臣鎌足。この時、鎌足が入鹿の横暴を取り除くよう進言。2人の入鹿暗殺計画はこの出会いから始まったと言われています。この暗殺計画の刺客として鎌足が目をつけたのは網田と子麻呂、そして石川麻呂の3人。この石川麻呂は入鹿と不仲だと言われ、蘇我家の内部崩壊を狙った石川麻呂を味方にするため、中大兄皇子はその娘と結婚しました。娘をたてに、暗殺計画にひきずりこもうとしたのです。そして計画をいつ実行するか考えます。朝鮮三国の使者がくる重要な儀式があれば入鹿も顔をみせると偽物の儀式を考えます。そして、運命の日はついにやって来ます。朝鮮三国から天皇へ貢ぎ物が献上される儀式の日。入鹿も儀式に参加するために姿を現します。そこへ1人の男が剣を渡すよう入鹿に迫ります。これは鎌足の罠。入鹿が常に剣を身につけていることを知っていた鎌足から剣を取り上げるためひと芝居打ったのです。万事鎌足の計画通り進み、入鹿が席につき儀式が始まります。石川麻呂が上奏文を読み上げる。実はこれが2人の刺客が入鹿に襲いかかる合図でした。しかし2人の刺客は恐怖のためか動く事ができません。上奏文の終わりが近づき石川麻呂の手が震える。計画は失敗かと思われたその時、中大兄皇子は自らの手で蘇我入鹿の首をはねます。これが入鹿暗殺の顛末でした。

隠されたストーリー

天皇中心の国家を目指す中大兄皇子らが起こしたクーデター、蘇我入鹿暗殺。その背景には別の首謀者がいた可能性があると言います。その鍵は入鹿が起こした、山背大兄王(やましろのおおえのおう)襲撃事件にありました。『日本書記』によればこの事件は、権力を手にしたい入鹿が山背大兄王を襲撃、一人で犯行に及んだとあるのです。藤原氏の伝記・『藤氏家伝』では襲撃は入鹿一人の犯行ではなく、多数の皇族が加わると言う記述も。しかも入鹿の単独犯を否定する史料は他にもあったのです。平安初期に書かれた聖徳太子の伝記でも入鹿は単独犯ではなく実行犯の一人とされています。この事件には6人の首謀者が挙げられ、その中には意外な人物もいました。皇極天皇の跡を継いだ軽皇子。ここに興味深い事実が明らかになってきます。中大兄皇子以外のクーデターに参加したものたちは、「地縁」でつながっていたのです。中臣氏、石川麻呂は和泉地方に多くの支配地を持ち、刺客の小麻呂と網田は、河内・和泉の出身。そしてその中心に、和泉に宮殿を持つ軽皇子がいたのです。クーデターの主役は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったのではないかと考えられます。入鹿が暗殺された時点で4人いた皇位継承候補者は、中大兄皇子と軽皇子の2人に絞られます。2人の内一番得をしたのはどちらだったのか。答えは皇極天皇の跡を継ぎ天皇となった軽皇子だと言えるのではないでしょうか。さらに意外な人物が軽皇子に仕えていたこともわかりました。それは中臣鎌足。実は、鎌足は2つのシナリオを持っていました。1つは、軽皇子の邪魔となる山背大兄皇を取り除き、その罪を蘇我入鹿に押し付けることで、入鹿暗殺の大義を手に入れます。そして、入鹿に不満を持つ中大兄皇子を利用して、あの古代日本史史上最大のクーデターを起こさせたのです。蘇我入鹿と中大兄皇子。2人の対決の裏には、一人の男の陰謀があったのでしょうか。

ここから始まる藤原氏の栄華

中大兄皇子とともに入鹿暗殺を実行し、軽皇子の即位に成功した中臣鎌足。今度は、中大兄皇子の即位を実現します。蘇我入鹿暗殺から実に23年のときが経っていました。即位の翌年、鎌足は天智天皇となった中大兄皇子から、それまで誰にも与えられなかった最高位「大織冠」、そして、「藤原」という姓を授けられます。ここから1000年にも渡る藤原氏の栄華が始まることになるのです。


https://manareki.com/taikakaishin   より

乙巳(いっし)の変と大化の改新は何が違うの?

645年の蘇我氏排斥事件は乙巳の変とも大化の改新とも呼ばれることがあります。どちらの表現が正しいのでしょうか?

実は正しいのは乙巳の変です。一般的に乙巳の変は蘇我氏排斥事件を意味し、大化の改新は乙巳の変も含めた一連の政治改革の総称を言います。この記事では、ちょっとくどいですけど、乙巳の変(大化の改新)と書くことにします。

乙巳の変と蘇我蝦夷・入鹿

643年に蘇我蝦夷・入鹿の傀儡君主だった皇極天皇が即位して以来、蘇我氏の専横な振る舞いは日に日に度を増すようになります。

そんな蘇我蝦夷・入鹿による独裁的な政治を刷新し、推古天皇の時代のように天皇主導の政治を取り戻そうとしたのが乙巳の変(大化の改新)でした。

乙巳の変(大化の改新)はなぜ起こったのか

反蘇我氏の機運が高まる中、蘇我氏排斥を実行すべく立ち上がった男がいました。それが中臣鎌足(なかとみのかまたり)という人物です。中臣鎌足は乙巳の変の首謀者でした。

中臣氏は代々朝廷の祭祀を担う一族であり、実は政治にはあまり縁のない一族でした。ところが、中臣鎌足は若い頃から政治の世界を目指していたようで、祭祀の仕事はせずに勉学に励んでいました。中臣鎌足は南淵請安(みなみぶちしょうあん)を師として隋の政治や文化などを学びました。南淵請安は607年に派遣された小野妹子で有名な遣隋使に同行した1人であり、隋の最新の政治・文化を知る日本にとって貴重な人物。

南淵請安から多くを学んだ中臣鎌足は、次第に打倒蘇我氏を志すようになり、645年、機が熟したと言わんばかりに勝手気ままに政治を行う蘇我氏を打倒しようと立ち上がったのです。これが乙巳の変が起こる大きな動機となります。

乙巳の変と中大兄皇子・中臣鎌足

打倒蘇我氏と言っても、中臣鎌足だけでは何もできません。そこで中臣鎌足がまず注目したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という人物でした。中大兄皇子は後に天智天皇として天皇となる人物で、乙巳の変後の日本の政治に多大なる貢献をした人物です。

中大兄皇子は当時、危機的状況に立たされていました。事の発端は以下の記事で紹介した山背大兄王殺害事件です。

蘇我入鹿は古人大兄皇子の即位を望んでおり、そのライバルを消し去るのが山背大兄王殺害の目的でした。実は、山背大兄王亡き後、古人大兄皇子の最大のライバルになりうる人物こそが中大兄皇子だったのです。以下の系図を見るとなんとなく三者の関係がわかると思います。

中臣鎌足は、蘇我入鹿の襲撃に怯える中大兄皇子の状況を知った上で、中大兄皇子に近づきます。打倒蘇我氏は中大兄皇子にとっても望むところ。この2人はすぐに仲良くなり、蘇我氏殺害計画を練りはじめました。中大兄皇子にとっては、「蘇我氏憎し!」という感情よりも蘇我氏に命を狙われ否が応でも立ち上がらざるを得なかったという側面の方が大きいのかもしれません。中臣鎌足はそんな中大兄皇子の感情を巧みに利用し乙巳の変を企てたわけです。

乙巳の変(大化の改新)の計画内容とは?

中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の計画は次のとおりでした。蘇我蝦夷・入鹿親子のうち、まずターゲットにしたのは蘇我入鹿でした。

決行日は、645年6月12日。三国の調という儀式の日に決まります。

以下の記事で紹介しているように、この時期になると蘇我入鹿は朝廷に赴くことはなくなり、私邸で政治を行なっていました。そんな蘇我入鹿を無防備の状態にさせるには、蘇我入鹿が出席せざるを得ない重要な儀式の場しかなかったのです。こうして乙巳の変の結構場所が決まりました。

三国の調(みくにのちょう)とは

三国の調は、日本に朝貢してきた高句麗、百済、新羅の使者が持参してきた上表文(訪問してきた国が持参してきた文書)を天皇の前で読み上げる儀式です。外交にも絡むこの儀式は非常に重要な儀式で、蘇我入鹿も必ず出席する儀式でした。

しかし、この時の三国の調は、蘇我入鹿を呼び出すためのでっち上げた偽りの儀式であり、実際には朝鮮半島の使者は来日していなかったのでは?という説もあります。

蘇我倉山田石川麻呂

上表文を読むのは蘇我氏である蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)という人物。

実は、蘇我氏とは言っても蘇我倉山田石川麻呂は中臣鎌足側の人間でした。蘇我氏にも宗家と分家があって、分家の蘇我氏たちは強大な権力を持つ宗家の蘇我蝦夷・入鹿に強い不満を持っていたのです。中臣鎌足はそんな分家の心の隙間を狙い、「一緒に憎き蘇我蝦夷・入鹿を倒さないか?」と乙巳の変への参加を持ちかけていたのです。

中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の同盟の証として、蘇我倉山田石川麻呂の娘と婚姻関係を結びます。この政略婚によって蘇我倉山田石川麻呂との信頼関係をより一層密にします。こうして志を同じくする中臣鎌足・中大兄皇子、そして中大兄皇子と血縁関係で結ばれた蘇我倉山田石川麻呂の3人を中心に乙巳の変が展開されてゆきます。

蘇我入鹿の殺害の合図は、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げた時。そのタイミングを狙って潜んでいる中大兄皇子らの部下たちが蘇我入鹿に斬りかかる・・・というのが乙巳の変(大化の改新)の計画でした。

乙巳の変(大化の改新)の経過

さて、中臣鎌足と中大兄皇子の乙巳の変はどのように実行されたのでしょうか。

蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げるところまでは乙巳の変は計画通り順調に事が運びますが、その後に蘇我入鹿へ襲いかかるところで思わぬ事態が発生します。蘇我入鹿に襲いかかる予定だった部下たちが土壇場になって恐怖し、体が動かなくなってしまったのです。

蘇我倉山田石川麻呂は、上表文を読み続けても一向に部下たちが蘇我入鹿に襲いかかる気配がないので、「計画が失敗したか!?」と不安になり、顔中汗まみれになり声が震える始末でした。当然、この蘇我倉山田石川麻呂の異変に蘇我入鹿も気付きます。

蘇我入鹿「なぜ石川麻呂は、そのように汗だらけで声が震えているのか」

蘇我倉山田石川麻呂「天皇の御前という事で、畏れ多く震えているのでございます。」

こうして、蘇我倉山田石川麻呂はなんとかして計画がバレないようその場をしのぎますが、それでも部下たちは動きません。最後に痺れを切らしたのは中大兄皇子でした。このままでは乙巳の変は失敗すると見るや、自ら刀を持ち蘇我入鹿に襲い掛かります。そして、これに勇気付けられた部下たちも中大兄皇子の後に続き蘇我入鹿を襲います。この時の状況を絵にしたのが以下の図です。

首を切られているのが蘇我入鹿。左上の女性が皇極天皇です。皇極天皇は、中大兄皇子が「蘇我入鹿が皇位簒奪を企んでいます!」という言葉を聞き、恐れ多くなって逃げ出しているところです。(ちなみに皇極天皇と中大兄皇子は母と息子の関係です。)

乙巳の変は計画通りには進まなかったものの、機転を利かせた中大兄皇子の対応により、無事成功。蘇我入鹿を討つことに成功したのです。

もう1つの乙巳の変(大化の改新)

ここまでの経過はとても有名な話なので知っている人も多いかと思います。しかし、乙巳の変は蘇我入鹿殺害だけが目的ではありません。入鹿の父である蘇我蝦夷も滅ぼさなければ、蘇我氏を影響力を排除することはできません。

実は、蘇我入鹿殺害と同時並行で蘇我蝦夷の自宅を襲う計画も進められていました。蘇我入鹿邸の近くの法興寺というお寺(現在、奈良県明日香村にある飛鳥寺の前身となったお寺)に兵を潜ませ、蘇我入鹿殺害後、直ちに蘇我蝦夷邸を包囲する計画でした。あまり知られていませんが、ここから乙巳の変の第2章が始まります。

東漢(やまとのあや)一族の裏切り

蘇我入鹿殺害と同じ645年6月12日、中大兄皇子らは蘇我氏の味方だった東漢一族を離反させることに成功します。堅牢な蘇我蝦夷邸を落とすため、まずは内通者を送って内部分裂を図ったのです。

そしてその翌日、蘇我蝦夷は自らの最期を悟り、自宅に火を付け自害します。こうしてわずか2日の間に、中大兄皇子らは蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼすことに成功。

こうして乙巳の変は大成功に終わり、日本の政治が大きく変わろうとしていました。

乙巳の変(大化の改新)の歴史的意義

最後に、乙巳の変(大化の改新)の歴史的意義とはなんでしょうか。日本という国は、常に天皇が国の中心に存在しています。現代においても政治の実権は持たないものの、国の象徴として日本国の君主として君臨しています。

実は、このような天皇中心の国が成立したのは飛鳥時代なんです。本格的に天皇主導の政治を実施したのは飛鳥時代では推古天皇が最初でした。ですが、蘇我氏の力が強すぎて思うような政策は打ち出せませんでした。しかし、乙巳の変により蘇我氏が没落すると、天皇中心の国造りのための政治がいよいよ本格化することになります。乙巳の変の歴史的意義は、この事件を機にいよいよ天皇が権力を掌握し始めた・・・と言えるでしょう。


https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume004.html

【飛鳥の朝廷と律令国家の形成】  より

遣隋使の派遣と国政の改革

奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。

6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。

しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。

さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。

徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。

外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。

592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。

まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。

倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。

しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。

厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。

603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。

徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。

豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。

翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。

「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。

こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。

小野妹子は、隋の皇帝に国書を持っていきました。その国書に『日出(い)づる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す』と書かれているんですが、隋の皇帝はこの国書を読んで怒りをあらわにした、と言われています。」

607年、第2回遣隋使として小野妹子らが派遣されました。

小野妹子は、隋の第2代皇帝・煬帝(ようだい)に国書を渡します。

この国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれていたのです。

「天子」とは天下を治める人のこと。

「日出づる処の天子」というのは「倭国の大王」、「日没する処の天子」というのは「隋の煬帝」のことです。

皇帝・煬帝はこの国書に憤りを感じました。

煬帝にとって「天子」は隋の皇帝ただひとりであり、「倭国の大王」が「天子」を名乗ったことに強い不快感を示したのです。

しかし、朝鮮半島情勢の現状をふまえ、翌年、隋からの使者が初めて倭国を訪れ、対等な国交が始まります。

以降、遣隋使として中国に渡った「留学生(るがくしょう)」や「学問僧」らの知識と経験は、国政改革に大きな役割を果たしていきます。

「遣隋使を送った厩戸王なんですが、別の名前で呼ばれていました。知っていますか?」

昔は『聖徳太子(しょうとくたいし)』って呼んでいて、私のころもそう習ったんですけれども、今は厩戸王で統一されています。なぜなら、聖徳太子の太子という称号は厩戸王本人がなくなったあとにつけられた称号だから。当時、聖徳太子というのはおかしいという理由なんだそうです。その聖徳太子こと、厩戸王がなくなったあと、日本の政治制度は大きな転換期を迎えていきます。

大化の改新

618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。

唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。

「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。

大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。

当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。

中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。

天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。

「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。

その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。

翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。

「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」

こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。

これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。

大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。

2019年は改元の年ですが、これまで250近くの元号があって、その最初が大化の改新の『大化』なんですね。そして、新たな国家体制・律令制につながっていくわけで、どんどん日本が変わっていく変革の時期です。


律令国家のしくみ

660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。

その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。

しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。

さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。

一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。

彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。

7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。

白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。

その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。

天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。

そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。

藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。

701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。

中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。

大宝2年の戸籍があります。

6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。

大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。

土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。

農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。

これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。

また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。

そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。

こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。

土地・人民を豪族が支配し、その豪族を支配するのが大王、というのが氏姓制度にもとづく大和王権の支配体制。一方、律令国家の中央集権的支配体制とは、豪族、農民、土地もすべて、天皇が直接支配する、というのが大きな違いですね。

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