乙巳の変

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-4.html  【乙巳の変】

①「乙巳の変」と高向臣  

 馬子は嶋宮に館を構え、大臣になってからは「嶋大臣」と呼ばれましたが、その前後から「(蘇我)葛城臣馬子」と称していたと推測されます。これは馬子が推古大王に、「葛城の県(あがた)は私の元の本拠であり、その県にちなんで姓名を名乗っている」と言ったことに拠ります。

 馬子と同時代に厩戸皇子の側近として、大王家以前から葛城に居住していた古代の大豪族で皇別(こうべつ。大王や皇子の子孫)葛城氏の血筋を引く、葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)という人物がいました。信憑性はありませんが、馬子は葛城氏も蘇我氏も祖先が同じ建内宿禰(たけのうちのすくね)だという理由を付けて、実質的に葛城県を既に支配下に置いていために、馬子も葛城臣を名乗っていたようです。

 馬子はそのことばに続いて葛城県の私有を申し出ましたが、葛城氏が完全に凋落していたわけではないので、推古帝に強引すぎることをたしなめられて、実現しませんでした。

 しかし馬子が葛城臣と称していたことに対する咎めは受けていませんから、蘇我の宗家であり同時に葛城氏の長という立場は認められていたということでしょう。

 馬子の母と妻について詳しいことは不明ですが、住まいが葛城にあったと言ったことから、義母(稲目の妻の一人)が葛城本宗家の娘で、そこに生まれた娘が馬子の正妻になって、葛城一族を統率する立場になっていたものと思われます。稲目も馬子も、往時の畿内で名門豪族だった葛城氏を取り込むために、葛城氏宗家の血統にある娘と無関係だったとすることはできないからです。

 さらに推測すれば、敏達大王のあとに大兄皇子が大王(用明)に立てられたのは、稲目からすると用明大王が娘の石寸名(いしきな)の夫として義理の息子であり、同時に娘の堅塩媛の子として孫でもあり、さらに嫡男馬子の義理の兄でもあったという理由もあったからだろう、と考えられます。用明大王はまさに蘇我氏のために擁立させられた大王だったわけです。

 用明大王と石寸名の間に生まれたのが田目皇子で、葛城直磐村の娘の広子との間には、当麻氏の祖になった麻呂子皇子(当麻皇子)をもうけています。

 そして蝦夷は、宝皇女が大王(皇極)になったとたん、葛城の高宮(御所市の高宮廃寺跡)に祖廟を建てて、そこが蘇我の領有地であることを宣言しました。

 大王はそれを責めていませんから、蝦夷の代には蘇我氏が葛城氏を完全に押えてその土地の実権を握っていたことがわかるのと同時に、これも蝦夷と皇極大王の強い関係を示していると考えられます。

 蘇我氏の人物の呼称については、養育関係に基づく場所の名前だけでなく、血縁関係がなくても、別氏族の長に指名されて、その氏族の名を付けた「臣」や「王」と名乗ることがあったと推定されます。

 馬子の異母弟だったと推定される摩理勢(まりせ)は、「境部臣」を名乗りました。天武天皇が定めた「八色の姓」で、朝臣に次ぐ姓の宿禰を授けられて、境部(橿原市)に居住していた氏族に「坂合部連」(さかいべのむらじ)があり、彼らの族長となって統率したと考えられているのが「境部臣」です。

 摩理勢を馬子の弟、また従弟とする説もあります。摩理勢は上宮家との係わりが深く、泊瀬王(山背王の異母弟)を頼りにしていたことや蝦夷への反発、また蝦夷に討たれたことなどから、馬子の実弟(蝦夷の実叔父)とは考えにくく、馬子の異母妹(小姉君あるいは石寸名)の兄弟だったのではないか、と思われます。

 ちなみに、摩理勢は田村皇子(舒明大王)の皇位継承の前に山背皇子の擁立を決めていましたが、大夫たちに「大兄王の命に違うてはならぬ」とたしなめられています。これは非常に示唆に富むことばです。山背王はその前に不服でも蝦夷の決定に従うと言っていますので、摩理勢が独走した悪者になります。そして、ここからの『紀』の構図は、舒明大王を立てるまでの蝦夷も、摩理勢が擁立を謀った山背王も善人であり、のちに、皇極大王を立ててから悪人になった蝦夷と、善人であり続けた山背王を入鹿が独断で討って一族を滅ぼしたので、蝦夷と入鹿を中大兄皇子が討った、という流れになります。

 更に蛇足ですが、筆者は、田村皇子の擁立を馬子は生前に決めていて、推古大王にも蝦夷にも伝えていたのですが、内紛を恐れた蝦夷がすぐに命令を出せなかったために混乱し、最終的に摩理勢を処断して収めた、と考えています。

 推古大王の宮の上殿(かみつみや)を与えられた厩戸皇子は「上宮王」と呼ばれ、その子の山背大兄皇子は山背氏に養育されたものと考えられています。

 山背臣の人物では、推古期に山背臣日立(ひたて)がわが国で初めて方術を学んでおり、「八色の姓」で山背臣が朝臣姓を授かっていますが、系譜は不詳です。しかし山背を付けられた皇子が、「山背臣」や「山背王」とも称されていました。山背大兄皇子が「山背大兄王」とも記されているからです。

 『記』においては、欽明大王と堅塩媛の間の第八皇子山背王子が「山代王」、押坂彦人大兄皇子と桜井玄(ゆみはり)皇女(『紀』の敏達大王と推古大王との間の第七皇女、桜井弓張皇女)も「山代王」の名を継いでいます。

 皇極大王の祖父になる桜井皇子は、『記』では桜井玄(ゆみはり)王と記されますが、「吉備王」と呼ばれていた可能性もあることを述べました。これは吉備姫王の父だったことからも妥当性があると思われます。また、後述しますが『紀』で「身狭(武蔵)臣」と呼ばれた蘇我日向は、『続紀』「文武紀」に記される「日向王」だと推定されます。

 従って、馬子から大臣位を継いだ蝦夷についても、館を構えた場所から「豊浦(とゆら)大臣」と称されたのですが、入鹿が林臣と記されるのと同様に、養育された士族の長としての立場もあったものと考えられるのです。

 その推理に重大な暗示を与えてくれるのが、「皇極紀」に記される高向臣国押(たかむこのおみくにおし)です。

 高向氏は南河内に拠点を置いた古族で、蘇我宗家と祖(武内宿禰)を同じくするとされています。その一族は恐らく継体大王の時代から、大王家の警護役を任務としていたようです。蝦夷も、高向氏は大王家に対する蘇我氏の見張り役だと思っていたのでしょう。しかし長く大王家についていた高向氏は、蘇我氏の分断と宗家の打倒を狙う鎌足と中大兄皇子にすでに抱き込まれていたのです。

 だから入鹿たちが山背大兄王を攻めて一旦取り逃がした時には、国押は「大王の宮を守るのが役目」と、追討の兵を出すことを拒みました。

 そして「乙巳の変」では、国押は蘇我宗家に対して明らかな裏切り行為に出ました。入鹿の遺体が蝦夷に送られたあと、甘樫丘(甘橿丘)の北側の尾根にあった蝦夷の館の守りについていた東漢氏などを、「吾等は君大郎(きみたいろう)のことで死刑に処せられるだろう。大臣も今日明日のうちに殺される。それなら誰のためにむなしい戦をしなければならないのか」と、解散させてしまったのです。東漢氏は技術や武力を持って、古くから蘇我宗家に直接従った数十の枝族からなる大集団でした。

 国押のその言葉では蝦夷を単に「大臣」として、「君大郎の父」と切り離しています。しかし「君大郎」は「主君の大郎」で、大郎は太郎つまり長男のことですから、君=蝦夷で大郎=入鹿です。また、国押を長とする高向臣の君(=王)が蝦夷だったことを暗に示しています。

 『紀』のこの箇所については『藤氏家伝』(正式には『家傳』で藤氏の名はついていない)とほとんど一致していて、入鹿を示す「君大郎」も使われているので、『紀』と『家伝』のどちらが元になったのか疑問なのですが、「賊党高向国押」と記しているのが目につきます。鎌足が利用して協力させた国押を「賊党」にしたことに、『藤氏家伝』の性格が現れています。国押が「大臣も今日明日のうちに殺される」ことを一人で勝手に予測したはずがなく、計画を国押に教えた人物がいたことを隠しているからです。

 高向臣の名称については、蘇我稲目の弟の蘇我塩古(しおこ、また桓古ともいう)が河内の高向村に居所を構えたので「高向臣」の姓を負ったとされています。塩古が初代高向臣で、蝦夷は豊浦に居を構えながらその地位と名称を継いだ「高向臣蝦夷」として国押の君(王)だったと考えられます。

 つまり、 蝦夷が養育された氏族については、その名前から東国の氏族と見る説がありますが、ここから考えられるのは、

蘇我蝦夷は高向臣に養育されたことです。

 高向氏は蘇我氏と同祖と伝える名家で、国押は大王の宮の警護長を務めるほどの重用人物ですから、『紀』の流れからすれば、入鹿が殺されたために国押に死罪を与えられる力を持った人物は、彼らの統率者だった蘇我本宗家の蝦夷しかいなかったのではないかと感じさせます。ところが国押は、すぐに殺されるとわかっている蝦夷に死刑にされることはないと知っていたのです。

 だからここでは、国押の部隊と東漢氏の兵たちを処罰できる人物が別に存在していた、と考えなければなりません。

 ここで細かく見直さなければならないのは、国押は「吾等は死刑に処せられるだろう」が「守るべき人がいなくなるのだからむなしい戦はやめよう」と言っていることです。つまり、東漢氏も死刑になるとは言っていないのです。

 国押を死刑にできて東漢氏も罰せられる人物は、国押を入鹿の殺害計画に引き込んで利用していた中大兄皇子でも鎌足でもあありえません。そうなると残りはただ一人、――用明大王の孫だった高向王の子で父の王称を継いでいた可能性が高い「高向王」、同時に東漢氏との深い関係が推測される「漢皇子」だったとみなさざるを得ないのです。

 そして、この推定で浮かび上がってきたのは、夭折説も出されていた

漢皇子が乙巳の変の時点までは生存していたという新しい発見です。

 しかし漢皇子は国押を死罪にできませんでした。なぜなら、国押は孝徳朝で貴族に列する刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)に就いた、と伝えられているからです。また東漢氏をすぐに罰することもできませんでした。しかし東漢氏は天武天皇の代になって大きな叱責を受けることになります。これがあとで極めて重大なヒントになりますが、恐らく入鹿が暗殺されたことはすぐに漢皇子に知らされなかったか、皇子が動きを封じられてものと思われます。

 国押が蝦夷を裏切った理由は、高向臣の長の座が、蝦夷の死によって「賊党高向国押」(『家伝』)が高向臣国押(『紀』)に与えられたことから明白です。国押と蝦夷は恐らく幼少時からの友達で、国押からすれば蝦夷は単に一族の養育者であり、族長は自分が務めるべきだと思っていたはずです。その心理を利用した恐るべき人物が、外向けには国押を臣にして立てながら内では賊党扱いにしていた鎌足だったと考えれば、乙巳の変の裏の流れが読めます。

 蝦夷親子について、「皇極紀」は「甘橿丘にならべて建てた、蝦夷大臣の館を上(かみ)の宮門(みかど)、入鹿の館を谷(はさま)の宮門と呼んだ。またその男女を王子(みこ)と呼んだ」、と記しています。この記事からも、蝦夷が「王」と呼ばれていたことがうかがわれます。

 『紀』はそれを事実として記載しているだけであって、それを天皇家に対する不遜や専横と捉えたのは近世になってからの解釈です。

 その他に従来は、①蝦夷が葛城の地に祖廟を建てたこと、②そこで八佾の舞(やつらのまい。大王だけに許された8人8列の群舞)を舞わせたこと、③双墓を造らせて蝦夷の墓を大陵(おおみささぎ)、入鹿の墓を小陵(こみささぎ)と呼んだこと、④館を宮門と呼ばせて子女を王子と呼ばせたことなど、すべてを混同して、蝦夷が大王を差し置いて数々の横暴な行為を行ったと捉えられてきました。

 しかし①から③に対して怒りを表したのは、山背大兄王と共に自害することになった上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ。厩戸皇子の娘の舂米女王(つきしねのひめみこ)とされる)です。この妃は大王家に仕えた膳(かしわで)氏の娘でしたから、蘇我宗家に対する反発を強調されたのでしょう。

 『紀』はそれらを蝦夷と入鹿が殺害される原因と記しましたが、皇極大王がそれらの行為に反対したとは記していません。

 しかも②には皇極女帝が参列していた可能性があり、③については、死後に墓の造営で民を苦しめないためだとの説明を付けていますから、理解を示しており、④は蝦夷は舒明大王以前の筆頭外戚であり皇極大王を立てた皇族ですから、単に臣下の傲慢のなせる業だったとは言えません。

 また蝦夷が自害した当日に、皇極女帝は蝦夷と入鹿を墓に葬ることも、喪に服して泣くことも許しています。女帝は二人を罪人ではなく、通常死を遂げた宮人と同じように葬って送るように命じたわけです。それは憎しみを持っていた者たちに対する刑ではなく、『紀』が伝えようとする、馬子から蝦夷と入鹿に及んだ蘇我宗家の横暴に対する処罰でもなかったのです。

 入鹿が皇極期になって突然権勢を振るったように思われるのは『紀』の文章によるためで、皇極女帝が特別に頼りにしてかわいがったのを、『家伝』は反感とねたみから「寵幸近臣」としたのでしょう。そうでなければ鎌足を軽皇子の寵臣と記した理由も理解できません。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271201

蘇我氏の出自

 蘇我氏は入鹿から数えて3代前の稲目から、突如として歴史の表舞台に台頭してきました。蘇我氏は、藤原氏と違い、政争にやぶれて、蘇我氏本家は滅びました。蘇我氏の出自は特定がむずかしいですが、渡来説と土着説の2つの説があります。しかし高句麗から来たという説が有力ではないでしょうか。

【蘇我氏は高句麗から来た説】

るいネット:蘇我氏の出自を探るリンクと蘇我氏は高句麗からやってきたリンクから整理して紹介します。

■蘇我稲目の父親の名前が高麗(こま)ということが分かっています。高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉なのです。

 蘇我満智や蘇我韓子などの名が「日本書紀」に出てきますが、彼らが蘇我稲目の先祖でないとしても、全く関係がなかったともいえないでしょう。満智(まち)とは、百済人によく見られる名前です。韓子は原日本人と韓人の混血のことを指して言う場合が多いようです。蘇我氏は、渡来系の集団のリーダーとして力を持ってきたということを思えば、当然、蘇我満智や蘇我韓子といわれた人たちとも、無関係であるはずがありません。蘇我氏の一員である聖徳太子の17条憲法を思い出してください。第一条は和の精神です。この和の精神に因って、出自の異なる渡来人をまとめて、力をつけてきたのが蘇我氏です。

 以上は、名前を理由に高句麗から来たという説です。

■蘇我氏の政治行動とその特徴として以下の点が上げられます。急速な台頭、国際的な開明性があります。仏教伝来を推進、倭漢氏などの渡来人を支配下に持ちました。倭漢氏だけでなく5世紀から6世紀の物部、葛城の没落後は蘇我氏は渡来人集団のほとんどを組織化し、彼らが手足となって活躍していました。6世紀初頭には百済の政策を模倣して部民制(人)と屯倉制(土地)を定着させ土地と人を支配しました。支配した渡来人集団を使って経済を一手に担い、権力を強化しました。

■一方で実質的には渡来人的性格があったと思われることとして、系譜の中に渡来人との婚姻があったことが指摘されます。蘇我稲目以前の蘇我氏の系譜に「蘇我韓子」や「蘇我高麗」などの朝鮮系とみられる名前が散見されます。蘇我韓子の父は倭人ですが、母は朝鮮系であることが書記にかかれています。蘇我稲目は高句麗の女性を妻としたという記事もあります。

■蘇我氏が構築した体制は倭人では無理という説。天皇家はその後、斉明―天智―天武を経て藤原の力を得て蘇我氏の作った律令制度を引き継いで東日本を除く列島の過半を統合する事になります。こうして見ると天皇家と蘇我氏とは単に百済―新羅という単純化した勢力争いだけではない蘇我氏の天皇家(日本)支配の構図が見て取れます。しかし蘇我氏滅亡後も天皇家と血縁関係を結んで実権を得ていく、その手法はそのまま藤原不比等がトレースしていきます。天皇家が神格化され実質を失い、それがその後の日本の天皇制の雛形となりました。

【蘇我氏の出自は葛城の地に住む土着の倭人】

 蘇我氏の出自は土着の倭人であるという説もあります。河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説と、葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説の2つがあります。


下記もご参照ください。

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7250972 【藤原氏の蘇我氏への遺恨】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7249304【「葛城の神」と「葛城王朝」の謎】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7249633 【中臣鎌足】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7252769  【袋小路から抜け出す】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7259401  【袋小路を出て翡翠】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7195471  【秦氏とその周辺】


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