五眼で世界を観ること

手と足と分からなくなる熱帯夜  五島高資「 雷光」


facebook・山地 弘純さん投稿記事

【五眼で世界を観ること】

我々がこの世界で生きていくうえでもっておくといい五つの視点があるといいます。

つまりこの五つの視点である「五眼」を備えて世界を観ることができれば、この世界の捉え方が変わるというのです。

五眼は、次の五つです。

1、仏眼・・・法界体性智

2、法眼・・・大円鏡智

3、慧眼・・・平等性智

4、天眼・・・妙観察智

5、肉眼・・・成所作智

まず一つ目の眼(仏眼)で見通すのは、「この大いなる宇宙は一つの生命体である」ということです。

これを「法界体性智」といいます。

真言宗では「大日如来」と言っていますが、「絶対神」と言っても、遠藤周作さんのように「たまねぎ」と言っても、なんでもありかなと思います。

そのパーフェクトな宇宙の計画性のもとに我々は生かされています。

 我々に起こることは全体の中で起こるべくして起こっていることを想いますと、「すべてはうまくいっている。なるようになるさ。」という気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。

自分ではどうにもならないから仕方なしに選ばされているという無意識的なものではなく、意識的に「委ねる」ということを選ぶということです。

なるようになった。なんとかなった。そんな体験の繰り返しが、宇宙への信頼を強化していくことを、自分自身確信しています。

 二つ目の眼(法眼)で見通すものは、「この宇宙の中のすべてのものたちは宝珠であり、互いが互いを写し合う鏡になっているのですが、その大円鏡の外から世界を観るようにすると、他者を通じて本当の自分というものを知ることができる」ということです。

これを「大円鏡智」といいます。

 「他者は自分を写す鏡」という言葉もメジャーになってきました。

例えば相手に対する怒りが湧いてきたときに気づくことができるのが、「〇〇すべき」「〇〇せねば」という自分の価値観です。

その価値観をはずしてみて、その下に隠れている自分の本当の気持ち、過去の自分の何を重ねていたのかを見つけ出してやると、次に味わえる感情や行動パターンが変わっていきます。

自分の中にあるものを他人は写してくれるのです。

 鏡の中の世界では反射しあって自分に気付けず、相手を悪者にするだけになりかねませんので、自分を客観視し、他人を主観視するかのごとく鏡の外の観照者の眼を養うことでしょう。それが「鏡の法則」、いやそれを越えた「マジックミラーの法則」と言われる所以です。

 自分が実は投影した過去に生きていて、今を生きれていないことにも気付いていけるはずです。

 三つ目の眼(慧眼)で見通すものは、「全ての存在は平等である」ということです。

これを「平等性智」といいます。

「我心、仏心、衆生心は三心平等である」という言葉を弘法大師も残されているように、私たちの心は神や仏とさえ同等のものなのです。

 神や仏を自分は下から崇めたてまつるというのではなく、もし神仏を崇めるならば自分も同じように崇めることが大切だと思います。

自分の心はイカしてるけど、あいつの心はイケてない。あのお方は素晴らしいけれど、私はカス。などという上下格差などなく、平等性な心をもっているということです。

 しかし自分は下で相手は上であるとか、自分が上で相手は下であるとかいう態度でコミュニケーションを取る人がほとんどかと思われます。

上下はありません。見上げることも見下すこともなく、自分も神仏も他の人も同じように扱いたいものです。

「扱う」なんて言葉、神仏に失礼じゃない!と思う方は、「奉る」に変換していただいて、どうぞ自分も他の人をも奉っていただければ平等でいいのではないでしょうか。

 私たちは大宇宙の仏「大日如来」とまったく同じものを兼ね備えています。

例えるならば仏はキラキラと輝く金剛石(ダイヤモンド)で、私たちは金剛石の原石であると表現されます。

等価だとわかっていただけますか?

僕は年上の方でも、有名な方でも、へりくだらずに、かといってないがしろにすることなく、敬意をもって対等に接させていただいているつもりです。

もちろん年下に対しても然りです。

 四つ目の眼(天眼)で見通すものは、「全ての存在はみんな違う」ということです。

これを「妙観察智」といいます。

人は平等性ですが、みんな同じ形ではありません。

見た目もそうですが、発揮する特性も、考え方も価値観も違います。

同じということにのみ目がいってしまいますと、自分が思っていることは他人も思っているに違いないという錯覚も起こしやすいのだと思います。

 自分と他人の心の宇宙はそれぞれが違うということを、大切にしたいものです。

自他の心の境界線を守り、しっかりとお互いに認め合いましょう。

 三つ目と四つ目の眼を併せ持った時の表現が、金子みすゞさんの「みんなちがって みんないい」世界ですね。

比較、区別の眼は悪いものではありません。

そこに上下が付いてくるから関係性に歪みが生じますので、「対等であるという眼」をしっかりと並べた上で「比べる眼」を使えばいいのだと思います。

 五つ目の眼(肉眼)で見通すものは、「全ての存在が誰一人余すことなく絶妙に繋がっていて、お互いが助け合い、支え合い、凹凸がぴったりとはまりあって世界は構成されている」ということです。

これを「成所作智」といいます。

 教える人も教えられる人があってこそ役に立てます。つまり教えられている方も教える人の役にたっているのです。

介護される存在になってしまったとしても、それを介護したいと願う人のお役にたっています。

「私がいなくなったとしても世界は変わらない」と思ったことは誰でもあるのかもしれませんね。

おそらくきっといなくなったらいなくなったでそこにまた誰かがぴったりとはまり、変わらず世界は回っていくのでしょう。

でも今ここにいるということは、そこで影響される人が必ずいるということです。

 「存在するだけで役にたっている」ということをしっかりと観じながら、自分のやりたいこと、好きなこと、得意なことを表現するというだけでいいのでしょうね。

 自分がやりたくないことはやりたいって人にうまく頼りながら、自分にできないことはできる人にうまく任せながら、自分のやりたいことをしていくこと。

 それでこそ、ぴったりとパズルのピースががはまっていくかの如く繋がっていくことを実感できることでしょう。

 

 一から五の順番に眼を開くのがポイントです。

大いなるいのちを源にした我々の命。

その全体意識から縮小していき個の意識へと潜り、再び拡大していくこと。

それは創造主たる仏から始まる安心感をスタートに、孤独たる自分自身の中心性を突き詰め、今度は自覚的に宇宙へと統合していくというプロセスなのかもしれませんね。

 

大いなるいのちとしてすべての存在が見えない根っこで一つに繋がっていて、そこから伸びた一人一人の茎があって、一つたりとも同じもののない個性あふれる蓮の花を咲かせます。

 すべては上も下もなく平等な価値なのだけれども、姿形も心も同じものは一つとしてなくて、それぞれが凹凸があるからこそぴったりと相互供養の働きが作用し合い、完璧なる宇宙の循環を構成しているのです。

 

 これが真言密教でいう「五眼の妙相を具足する」という五つの視点で観た世界です。

さらに我々真言僧は、この五つの眼をイメージした印を結ぶのです。

僕はまだまだ知識で書いた部分が多いのですが、でもだいぶそこに実体験が加わってきて、世界の見え方が変わってきていると実感してるんですよ。

 みなさんも、もしよかったら採用してくださ~い。




今まで「五蘊」については誰からもあまり納得いく説明を聞いたことがなかったので、自分で物理学から逆算して当てはめてみました。

般若心経の一節にも出てくる「色受想行識」については皆さん聞いたことがあると思います。

認識システムのことです。

色とは姿形。

受とは感受。

想とはイメージ。

行とは行動。

識とは認識。

つまり、物事が起こり(色)、それを内臓でどんな感じ方をして(受)、それによってどんな思考や感情が生じ(想)、それでどんな行動をするのか(行)。

そしてそれらの経験に基づいて認識ができあがります(識)。

そしてこの識が、次の現象(色)へのフィルターへとなっていくということなのではないかと思います。

色は空であり、受も想も行も識もまた空であると説かれていますので、その幻影にいつまでとらわれてるのってことなのでしょうね。

無意識にこのサイクルが行われているならば、まずはこの内側で起こっていることに気づくということが必要になるのでしょう。

蓄積された内臓感覚。

蓄積された思い込み。

蓄積された行動パターン。

それに気づき、「今」その隙間にあるニュートラルな空間で「受」「想」「行」できると、アセンション(次元が変わる)ということなのかもしれませんね。

内臓の声を聞く。

「どんな気分?」

ビリーフを書き換える。

「どんな思い込みがある?」

行動を変える。

「どんな反応しちゃってるの?」

まずは自分の今のそれに気づくのが第一歩であり、それをちゃんと自覚して見守っていれば、その認識の原因も浮かび上がってくるのでしょう。

そのために僕たちは瞑想をします。

瞑想とは自分の内側で想起していることに気づくことです。


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気づきの瞑想ってどんなもの?

気づきの瞑想とは、いわゆるマインドフルネス(mindfulness)。

徹底した心身の観察を通して、心が解放され、安らぎを感じ、喜びに満たされること(p.14)を目指す瞑想法です。

私たちの生活には怒りや不安や恐れがついて回りますが、このような感情は私たちを縛り付けるロープのようなもの(p.15)であり、それを観察することで心の傷を癒し、代わりに幸福感で内面を満たすことができるのがこの瞑想法の特徴なのです。

気づきには二種類ある

一口に気づきの(=マインドフルネス)瞑想と言っても、その段階を二つに分けて考えるようです。

四念処経は、パーリ語で「サティパッターナ・スッタ」ですが、このサティとは「止めること」「対象への気づきを保つこと」(p.16)の意味。

また同じくパーリ語でヴィパッサナーという言葉は「対象に深く入り込み観察する」という意味で、この第二段階を指します(p.16)。

つまり、

サティ(第一段階)…対象に気づいていること、気づきを保っていること。

ヴィパッサナー(第二段階)…気づきを保ちながら深く観察し、対象に入り込んで理解すること。

こういうことですね。

気づきながら深く観察し続けるなら、観察する主体と観察される客体の境界が無くなり、両者が一体となる(体験をする)のですが、これがこの瞑想の核心(p.17)です。

理解の対象と理解しようとする主体との隔たりが無くなるときにこそ、真の理解が訪れるのだから、瞑想実践者は観察者ではなくて参加者になりなさい(p.19)、というのが重要な指摘がされています。

さて、気づきの瞑想の観察対象は身体・感覚・心・心の対象(法)の4種類に分けられています。

それぞれを観察する瞑想法が、どのようなものかを見ていきましょう。

実践1:身体を観察しよう

身体の観察

身体の観察と言っても、様々な観点からの観察があり、全部で9+1の実践(エクササイズ)に分かれています。

その対象には、呼吸・全身・姿勢・動作・身体各部位・四大要素とのかかわり・身体の無常・幸福と安らぎが挙げられますが、そのうち特に重要なものを詳しくご紹介します。

呼吸を観察する

動作を観察する

実践2:感覚を観察しよう

感覚の観察

二番目は、身体に起こる感覚を観察していく実践(エクササイズ)。

ここでは感覚を、快な感覚、不快な感覚、中性の感覚の3つに分けて観察していきます。

快感があるとき、「快感を経験している」と気づく。苦痛があるとき、「苦痛を経験している」と気づく。それが快感でも苦痛でもないときには、「中性の感覚を経験している」と気づく。

四念処経

それがどのような種類の感覚であっても、執着することなく、拒否もしない(放下:手放す)姿勢で、ただ観察していきましょう。これは瞑想に必要不可欠な態度です。また、その感覚が生まれ、持続し、やがて消えていく過程をも見分けていきます。

さらに、その感覚の源と、本質をも観察します。

身体に基づく(快・不快・中性の)感覚を観察し、あるいは心に基づく(快・不快・中性の)感覚を観察していきます。今感じている感覚が、身体か心かに基づく感覚ものであり、また快・不快・中性の性質の感覚のいずれであるのかを眺めていくプロセスです。

この観察によって、なぜその感覚が生まれてくるのか、原因と結果の関係が見えてくる(p.126)と言います。特に重要なのは中性の感覚であり、快でも不快でもない感覚を観察し続けるなら、どんなものでも快感へと変わっていく(p.136)とハン氏は述べています。

実践3:心を観察しよう

心の観察

三番目は心の観察。

心はいくつかの部分に分けられ、すでに述べてきた感覚に加え、認知(サンジュニャー)・思いの形成(チッタサンスカーラ)・意識(ヴィジュニャーナ)に分けられるのですが、特に思いの形成(チッタサンスカーラ)に注目しているようです(p.137)。

思いの形成と呼ばれている心理現象が、生まれ、存在し、消滅するようすに気づきながら観察します。気づきの灯りがともることによって、観察されている思いの形成が自然に健全なものに変容していく(p.139)点は重要でしょう。

欲求の観察を行うとき、欲求があるなら「心は欲しがっている」と観察し、ないなら「心は欲しがっていない」と気づき、心が緊張しているなら「緊張している」と、していないなら「緊張していない」と気づき、

心は落ち着いているなら「心は落ち着いている」と、そうでないなら「落ち着いていない」と気づきます。心が散漫であるとき「散漫である」と気づき、そうでないなら「散漫でない」と気づきます。

※心身の区分「五蘊」とは?

実践4:心の対象(法)を観察しよう

法の観察

最後は心の対象(法)の観察です。

ハン氏の解説がわかりにくいので、ここでは四念処経の訳文に則って理解していきます。心の対象を観察する際には、まず五蓋(ごがい:5つの障害)を観察を始めます。

五蓋(ごがい)の観察

心に肉欲があるときそれに気づき、ないときないことに気づき、生じたときそれに気づき、放棄したときにそれに気づき、放棄した後にも生じないことに気づきます。(肉欲以外の、怒り、退屈や眠気、動揺や後悔、疑いについても同様に観察します)。

五蘊(ごうん)の観察

五蘊とはすでに解説したように、色・受・想・行・識に分析された心身の5要素。

実践としては、身体(色)の生起と消滅を観察し、また感覚(受)の生起と消滅を観察し、……という風に続け、想・行・識でも同様に繰り返します。

六根(ろっこん)と六境(ろっきょう)の観察

六根は人間の感覚器官(眼耳鼻舌身+意識)のこと、六境はそれら感覚の対象(視覚聴覚嗅覚味覚触覚+意識によって把握される対象)です。

眼に気づき、その(視覚的)対象に気づき、その両者によってつくられる思いの形成に気づき、それが生起されること、また放棄されること、放棄された後にはもう起こらないことに気づきます。

これを同様に、耳・鼻・舌・身・意識(とその感覚対象)において行っていきます。

七覚支(しちかくし)の観察

七覚支は悟りの歩みを助ける7種の要素です。

念(一瞬一瞬にきづく)・択法(よく識別・探究する)・精進(修行の活力)・喜(修行の喜び)・軽安(心身を軽やかに保つ)・定(心の集中と安定)・捨(対象への執着を捨て、解放される)です。

心に気づき(念)があると気づき、気づきがないときにはないと気づく。まだ生まれたことのない気づきが生まれつつあるとき、それに気づき、すでに生まれた気づきが成就したときそれに気づく…。

これを択法以下でも同様に繰り返して観察します。

四聖諦(ししょうたい)を観察する

これが最後のパートになります。

四聖諦とは、ブッダの説いた4つの真理であり、苦諦(人生は苦であり)・集諦(苦悩とは様々な悪因を集めて起こり)・滅諦(そのような煩悩をもとに生まれる苦悩を滅し)・道諦(完全な解放を実現する方法)を指しています。

修行者は、苦しみが生じる時「これは苦しみである」と気づく。苦しみの原因が生じるとき「これは苦しみの原因である」と気づく。苦しみの終わりが現れるとき「これは苦しみの終わりである」と気づく。苦しみの終わりに導く道が現れるとき、「これは苦しみの終わりに導く道である」と気づく。

四念処経

まとめ

ざっくりではありますが、以上がブッダの気づきの瞑想の内容でした。

この四念処経、とにかく徹底的に(徹底的に!)観察し続けるので、尋常でない時間と集中力を割り当てねばならないことが良くわかると思います。

他のヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスでもこれほど徹底した観察を行うことはないと思いますので、本気でブッダが説いた気づきの瞑想法を実践したい方にはオススメです。

ハン氏の解説はわかりにくいと何度か言いましたが、それはあくまで実践とかかわりのない記述が多いから。裏を返せば、仏教的な考え方を理解するための引用やたとえ話がふんだんにあり、瞑想中の体験や心構えについてもたくさん触れられています。

この本はきちんと読めば多くの学びを得られると思いますので、特に瞑想経験者にオススメしたい一冊。気づきの瞑想、マインドフルネス瞑想、ヴィパッサナー瞑想に関心のある方はぜひ手に取ってブッダの考え方に触れてみてくださいね!

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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