五島市富江湾の朝日
https://colocal.jp/topics/donuts-culture/sangosan/20161206_87142.html 【「何もない」からの脱却。〈さんごさん〉の誕生で富江はどう変わった?福江島の小さな図書館〈さんごさん〉】
【世界を浄化する五島列島】
咲き合うて白地に赤き椿かな 高資
敷島の極まる玉之浦椿 高資
白妙に血潮わきたる椿かな 高資
野分して長刀石に八手かな 高資
八衢の長刀石や椿の実 高資
In a gale of autumn -
leaves of Fatsia are swaying
by the halbert megalith Takatoshi Goto
椛島・長刀石(長刀神社)
写真 : 竹下明伸さんの「日刊しまの食卓」http://ameblo.jp/a-takeshita/entry-11749417211.html から転載許可済
この長刀石(ナギナタイシ)は直径1m長さ4mほどの巨石で単なる天然造化ではなく椛島を根拠とした猿田彦大神のシンボル的存在と考えられます。近くにあるツブラ島、弥彦山、椿の原生林(伊勢一之宮椿大神社の主祭神は猿田彦大神)、八手(天狗の葉団扇)、対馬暖流と鹿児島や再び黒潮へ向かう反転流の分岐点にあたることなどを考え合わせるとますます猿田彦大神に縁の深い島だなと感じました。
個人的には太古この島の地主神だった猿田彦大神を象徴する石像だったのではないかと思っています。
4メートルくらいありますから迫力あります。人力で設置したのなら大変だったでしょうね。他にも五島には多くの巨石遺跡があります。
猨田毘古(さだひこ)の赫き眼や椿の実 高資 ·
非時香菓(ときじくのかくのこのみ)や小門凪いで 高資
今朝の朝日新聞に谷川健一先生の訃報が掲載されていました。先日の森浩一先生につづき、また、偉大な碩学を失ったことは残念でなりません。心よりお悔やみ申し上げます。
谷川先生には、五島に関しての多くの研究成果がありますが、以下にその一部を示します。
福江島の五所(社)神社(福江市[現・五島市]上大津町)の背後に橘という字名がある。そこは橘遺跡と呼ばれて弥生時代以来の遺跡が発掘されている。福江市の西にある岐宿町にもタチバナ地名は三カ所ある。その一つが河務にある立花という地名である。この河務から三キロはなれた所に江湖の辻貝塚があり、それと隣り合わせに日向岸という地名がある。日向岸は東に向いて眼下に入江が横たわっている浜である。また有名な寄神貝塚と隣り合わせに日向崖と呼ばれる場所があって、やはり東に向いている。五島の方言ではダツは崖である。ヒョウガ、ヒウラはヒムカであり、シは方向を示す語であって、ヒョウガシはヒムガシのことである。橘の語源については、諸説があるが、定説はない。私は顕ち花ではないかと考えている。すなわち、太陽の下できらきら美しくかがやいて目立つ花という意である。あるいはタチバナのタチはカンダチ、つまり神の顕現と解することもできる。イザナキが黄泉の国から帰って「日向の橘の小門」でミソギをしたという「記紀」の記事が思い起される。ここでは日向と橘の地名が結びついている。それが五島の福江島にも認められるのは見すごすことができない。(『日本の地名』岩波新書)
薩摩半島の南半部、つまり阿多隼人の中心部に古墳がほとんど見あたらず、しかもそこに耳という名の人物が生まれている。これは古墳のない五島に、大耳、垂耳という海人の酋長がいたことと同じである。そう考えてみると、神武帝の系譜に「ミミ」の名のつく人名がきわだって多いことに気づく。アマテラスの子どものアメノオシホミミは天大耳とも記されている。(『甦る海上の道・日本と琉球』文春新書)
高天原である五島から薩摩の笠沙岬へと天孫降臨したことを支持する貴重なご見解と思います。先生のご遺志を継承発展させていきたいと思います。ー 場所: 五島市
五島市戸岐のあたりです。「とぎ」を変換したら「渡御」が出てきました。松野尾辰五郎「日本国家の起源」では天鳥舟の「とり➡とん」に由来すると書かれています。
失われつつある日本の原風景を故地しかのみならず私たちの胸底に覓めゆきたいと思い定めています。生物学的遺伝子だけではなく文化的遺伝子をも継承していきたいですね。
この前訪れた宇都宮市の縄文遺跡・根古谷遺跡で翡翠製の玦状耳飾を見てきましたが、弥生以前の渡来系縄文人において耳に何らかの神聖な意味があったと考えられます。それから縄文土器では火炎式が特徴的と言われますが、写真のような文様は明らかに水紋であり、その方が倭の水人に相応しいと思われます。
「ホツマツタエ」なども併せて考えるととても面白いですね。ちょうど今『常世論』を再読していたところです。谷川さんはたしか水俣の出身ですが、五島にも谷川姓は多く、五島暖流(対馬暖流の支流で五島灘を湾流して再び黒潮へと流れる海流を私が勝手にそう呼んでいます)を介したつながりがあるのかもしれません。
コメントのやり取り
聞く=菊と言うことを幼いころから聞いています。聞くのは当然耳と言うことになると、思っております。m(__)m
テンペストと言う沖縄の時代劇を観たときに、王の姉妹が「聴こえの女王」と言う巫女の頭のような役職に就くと言うことがありまして、聞くと言うことが下々の方に向いていたかどうかは別として、聞くと言うことが重要な扱いを受けていたことは感じられました。
五島高資 以前、天忍穂耳命の玄孫・神武天皇が初めて新嘗祭を行った鳥見霊畤に行ったことがありますが、そこで原石鼎が詠んだ<頂上や殊に野菊の吹かれをり>を思い出しました。風の音に天命を聞いていたのかもしれませんね。そういえば聖徳太子も豊聡耳と呼ばれていましたね
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