二日市城址(橘城址)

カモシカ 橘城址

二日市城址(橘城址)

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【橘城跡(橘舘公園)を散策してきました。一関市情報奥玉千葉氏の居城跡】

気仙沼街道 国道284号線 一関市千厩町のJR千厩駅から車で10分ほど行くと、千厩町奥玉地区の小高い丘に橘舘公園を見ることができます。

橘城は立花舘、十六花舘、二日市城とも呼ばれる城跡です。

本丸と二の丸からなるこの城の面積は、約3,000㎡程の山城で、頂部中心に平場や腰曲輪が幾重にもある輪郭式を呈しています。

目に見えぬ敵と対ふにまづ涙こらへて我に克つべかりけり  高資

橘城・圓名山寶珠院ー 場所: 岩手県 一関市

弘仁年代(810~)に文屋綿麿呂が朝廷の命を受け、この地に軍を留め、砦に紅橘を植えたところから「橘城」と名付けられたとされています。

長承三年(1134)、佐藤但馬守師久は大鳥城主(福島市飯坂町)の師文の子でしたが、平泉藤原氏の命により、奥州刺史の補佐のため磐井郡東山郷奥玉邑を賜り橘城の城主となったのでした。

千厩町の一番広い平野である沖中地区の西端の丘陵に位置し、水田地帯を眼下に一望できます。

本丸と二の丸は連続していましたが、町道下鶴子沢線によって分断されています。

城域の南側の推定範囲は桜森神社付近とされています。

市道千厩大東線に添う地区は、中世末から近世にかけての市がたった場所で、現在も「二日市」の地名が残ります。

文治五年(1189)、源頼朝によって平泉藤原氏は滅ぼされましたが、この時の城主佐藤師時は頼朝軍を支援・出陣し、その功によって磐井郡の長となったのです。

しかし、文永年中(1269)、五代師光は橘城の東側に新城舘を築城、このことを葛西伯耆守の知るところとなり、師光は滅ぼされ以後葛西氏の一族が居城することとなりました。

永仁二年(1294)、大原邑主千葉胤常長男胤義が奥玉橘城に居城しました。

永禄二年(1559)、松川城主千葉信胤の二男輝胤が葛西氏の命により橘城の城主となりましたが、天井十一年(1583)、孫の胤時の代に薄衣城主薄衣因幡守清度に敗れ、大原飛騨守の配下となったのです。

橘城跡から見る奥玉地区 

天正十八年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置き軍と宮城県桃生郡で戦ったが敗れます。

翌年、胤時の弟胤俊は伊達政宗の軍によって桃生郡深谷で討死し、以後廃城となっています。

橘舘公園の登り口に、円名山寶珠院祉という寺院跡があります。

寛永三年(891)、聖宝僧正の開基の寺院といわれています。

わずか、八世で没落し、寺院は明治初期の火事で消失、以後不動堂のみが再建され、今に残っています。

http://www.sukawa.jp/rekisi01.htm 【上代の東北】

魏志倭人伝に言う「倭の大乱」は恒霊帝の間、即ち178-183年のことですが、その時点は弥生時代の中間期です。渡来系の各部族が生活の場をかけて興亡し、やがて勢力の帰趨によって古代国家が形成されてゆきます。当地方一帯はすでに先人が生活し、農耕が始まっていたことは縄文土器に圧着した稲粒の存在で明確です。

 近畿の血沼*1王朝は、日向から侵攻した後の神武天皇の軍に破れ、血沼王朝の長すね彦、安日彦等は東国に逃れ東日流(ツガル)に移動します。当時の東日流には既に稲作農耕が渡来していて、長すね彦等の部族が合族し、荒覇吐(アラハバキ)王朝を形成しました。

 この文化が中国龍山文化の系を引く亀ヶ岡式土器文化で、やがてその勢力は東北全土に及びます。東北各地の荒吐神社と亀ヶ岡式土器の存在はその勢力下であったことを示しています。安日彦の流れからニトロシ(現二戸郡淨法寺町)を経由して衣川村に住み、奥六郡の郡司となるのは安倍頼時であり、、それより前、荒吐王朝の地方長官としてこの地方を支配したのがアテルイです。

 「胆沢の蝦夷」と大和朝廷から恐れられ、朝廷軍の紀古佐美(キノコサミ)軍とアテルイ軍が戦った延暦8年(789年)が「続日本紀」にあらわれる当地方の初見です。

*1:訓は”チヌ”。大阪府南部の和泉の国にある地域の古称。 血沼・千沼・千渟・智努

*2:アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)信仰は、東北地方一帯に見られる民俗信仰。その起源は不明な点が多く、「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。歴史的経緯や信憑性については諸説ある。縄文神の一種という説もある。また、古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。

アラハバキを祀る神社は東北地方に多く見られるが、関東以南でもみることができる。ただしそれは主祭神としてではなく、門客神(もんきゃくじん)として祀られているケースが多い。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。アラハバキが「客人神」として祀られているケースは、例えば埼玉県大宮にある「氷川神社」で見られる。この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたとのことである。

吉野裕子によると、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であるという。「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

また、伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になったという。

2. 塞の神説

宮城県にある多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれはアラハバキに「塞の神」としての性格があったためと述べている。

さらに谷川によると、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」であったそうで、もともと蝦夷の神であったアラハバキを多賀城を守るための塞の神として配し、蝦夷を撃退しようとしていたという。

3. 製鉄の神説

先の、多賀城跡近くにあるアラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。また多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であるという。

先のアラハバキを客人神として祀る氷川神社であるが、出雲の流れを汲むという(出雲の斐川にあった杵築神社から移った)。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。また氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことである。氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。

またこの大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。氷川神社が延喜式に掲載されている古社であり、かつ、氷川神社の主祭神がスサノオになった(=元々主祭神であったアラハバキ神が客人神になった)のは江戸幕府の政治的意図によるものであることからすれば、出雲と氷川の繋がりの話は、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配の一過程であると捉えたほうがよさそうである。

近江雅和によると、アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。片目は製鉄神の特徴とされている。また近江は、「アラ」は鉄の古語であるということと、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していったと述べている。

なお、真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、「塞の神」と製鉄の神がここで結びついてくる。

4. 四天王寺との関係説

聖徳太子が物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制し建てた、日本初の大寺である大阪市の四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりが指摘されている。

四天王寺の地の元来の地名は「荒墓邑」(アラバキ?)であり、場所は縄文系説が言われる物部氏の地に立てたと伝えられる。

現四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったと考えてよさそうである。

http://www.sukawa.jp/rekisi_03.htm 【上代の東北】

後漢書に言う「倭國大乱」は桓帝・霊帝の間、すなわち146~183年のことですが、その時点は弥生時代の後期です。渡来系の各部族が生活の場をかけて興亡し、やがて勢力の帰趨によって古代国家が形成されてゆきます。一関地方一帯は既に先人が生活し、農耕が始まっていたことは縄文時代に圧着した稲粒の存在で明確です。

 近畿の豪族、安日彦(アビヒコ)、長髄彦(ナガスネヒコ)兄弟は、日向から侵攻した後の神武天皇の軍に破れ、東国に逃れ青森県津軽地方に移動したと言われています。その安日彦の流れからニトロシ(現二戸郡淨法寺町)を経由して衣川村に住み、後に奥六郡の郡司となるのは安倍頼時であり、それより前、この地方を支配したのがアテルイです。

 この頃の本州東部およびその以北は大和朝廷の支配下に置かれておらず、「蝦夷(えみし)」と呼ばれていました。支配領域を拡げる大和朝廷は蝦夷と対立し、幾度となく戦いました。延暦8年(789年)、朝廷軍の紀古佐美(キノコサミ)が遠征した際、巣伏村(現在の奥州市水沢区)でアテルイが率いる蝦夷軍と戦い(巣伏の戦い)、朝廷軍は敗北しました。

http://www.sukawa.jp/rekisi_04.html  【平安時代から平泉誕生】

延暦8年(789)の巣伏の戦いは朝廷軍の大敗に終わりましたが、13年後の延暦21年、坂上田村麻呂の遠征により蝦夷勢力は破れ、アテルイは降伏します。坂上田村麻呂は胆沢に農業栽培試験場をかねた胆沢城を造るに及び、漸く地元民との交流が可能となりました。兵士とその家族のうち 「希ふ者を永く柵の戸に置く」 と共に諸国から4千人の農民を移住させ屯田兵とし、開拓と農耕に当たらせました。

 北上川沿岸、磐井川、久保川、金流川、砂鉄川、千厩川、黄海川等の下流沿岸の適地が拓かれて逐年面積は増加しました。

 磐井の地名の出典は、承平年間(938)に源順(みなもとのしたごう)の書いた 「和名類聚抄」 が初見で 「伊波井」 とありまして、伊波井郡に7郷あり 「マスザワ イハイ ヤマダ ナカムラ ハセツカベ アマルベ」 となっています。このうち当改良区は、磐井郷(一関、山目、中里、平泉、真滝)と山田郷(狐禅寺、舞川、長部、田河津、母体)と仲村郷(流、栗原、石越)に包含されます。

 仲村郷は永承6年(1051)の「前九年の役」を記録した「陸奥話記」に出てきます。 前九年の役(1051~1062)は、奥六郡を支配する安倍頼時が朝廷と対立し、源頼義・義家父子が率いる討伐軍との間で起きた戦いです。その中の一関市萩荘の小松柵の戦いの項に「磐井郡仲村の地に入る。陣を去ること四十余里。耕作の田畑と民戸はすこぶるゆたかなり。即ち兵士三千余名を遣わし、稲禾等を刈るを令し軍量に給せんとす。」とあります。

 この戦いで安倍頼時は戦死し、跡を継いだ息子の安部貞任は討伐軍に対し、終始優勢な戦闘を続けますが、出羽山北の豪族である清原武則が大軍を率いて参戦したことにより崩れ、阿部氏は滅亡します。清原武則は、この戦功で朝廷から奥六郡を与えられます。

 永保3年(1083)清原氏の頭領である清原真衡と、かねてから不仲であった清原清衡と清原家衡の間に内紛が起こります。この紛争に源義家が介入し、清原真衡の死で一旦は収まりますが、今度は清原清衡と清原家衡との間に紛争が起こります。そして再び源義家が介入し、清原清衡の側について清原家衡を討ちます。この一連の紛争を「後三年の役」といいます。

 寛治元年(1087)清原氏の所領である奥六郡支配を継承することになった清原清衡は、姓を実父の「藤原」に戻し、奥州藤原氏の祖となり、奥州藤原四代百年の栄華が始まります。

http://www.sukawa.jp/rekisi_06.html   【源平抗争と藤原氏滅亡】

平清盛は保元、平治の乱(1159)を経て源氏勢力を滅ぼし政権を得ました。敗死した源義朝の子の頼朝は配所で平氏打倒を狙いましたが、頼朝の弟の義経は平泉の秀衡に匿われ、養育されました。

 治承4年(1180)、源頼朝が挙兵し、大規模な内乱(治承・寿永の乱)の果てに、平氏は滅亡します。

 文治元年(1185)、鎌倉幕府を開いた頼朝は天下を制覇し、乱の後に対立した義経を敵としました。義経は難を逃れるため再び平泉の秀衡のもとに身を寄せますが、秀衡は文治3年(1187)に卒し、家督は泰衝が継ぎましたが父の器量はなく、同5年4月に義経を衣川館に襲いました。

 泰衝は頼朝に義経の首を差し出すことで平泉の平和と独立を保とうと図りましたが、頼朝の目的は義経ではなく、奥州の地でした。

 文治5年(1189)7月、頼朝は泰衡追討の勅許が下りないまま、大軍を発して奥州を攻撃し、平泉を焦土としました。

 泰衡は平泉から逃亡したものの、郎党の河田次郎の裏切りに遭い討たれ、ここに奥州藤原氏は滅亡します。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_tiba.html  【陸奥千葉氏】

https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/chibashi-no-rekisi.html

【郷土博物館_千葉氏の歴史】

千葉氏のはじまり

千葉氏の始祖、平良文

千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族です。

桓武天皇のひ孫高望王(たかもちおう、後に平高望)は上総介(かずさのすけ)となって関東に下向しました。

その子の国香(くにか)、良正(よしまさ)、良兼(よしかね)、良持(よしもち)、良文(よしぶみ)などは、高望の所領を継承するとともに関東各地に土着し、勢力を広げていきました。

高望の末子とされる良文は、当初、相模国村岡(現神奈川県藤沢市)を拠点としますが、平将門の乱の前後に下総国の相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心として活躍するようになります。

平忠常の乱

桓武平氏略系図良文の孫平忠常は、香取郡東庄町の大友城などを拠点として上総下総に勢力をふるっていましたが、官物の納入などをめぐる争いから、1028年(長元元年)安房国司を焼き殺すという事件が起こります。

朝廷は忠常の追討を命じますが、忠常は上総国の国衙を占領し、周囲の国人たちを味方に付け、さらに後任の安房の国司を追放するなどして抵抗し、反乱は長期化しました。

その後、甲斐国司源頼信(みなもとのよりのぶ)に追討が命じられると、1031年(長元4年)忠常は降伏してきました。

忠常は都に連れて行かれる途中でこの世を去りましたが、子孫は処罰を免れました。

忠常の子常将や孫の常長は長い戦いで荒廃したこの地方の再開発に着手し、房総全体に勢力を広げていきました。

大椎権介常兼

忠常のひ孫常兼(つねかね)は、上総国大椎の地(現緑区大椎町)を拠点として大椎権介(おおじいごんのすけ)と称しました(『千学集抜粋』)。

大椎は、村田川上流部の山間部に位置し、鹿島川水系の分水界ともなっています。

大椎は鹿島川を経由して印旛沼・利根川に至ることができ、村田川を利用すれば、容易に上総国府(市原市国分寺台)に至ることができました。

また、陸上交通については東部の丘陵地帯を抜ければ太平洋沿岸の匝瑳郡海上郡に至り、西部に下れば、東京湾に面する千葉郷に至るなど水上交通、陸上交通の要衝の地でした。

現在、大椎集落の北側丘陵上に残る連郭式の中世城郭は、遺構から16世紀後半の築城と考えられており、土気酒井氏の出城だったのではないかといわれており、常兼が拠点とした城(館)との関係は明らかになっていません。

千葉氏拠点の推移<千葉氏拠点の推移>

千葉移住と鎌倉幕府の創設

千葉への移住

千葉氏略系図1大椎常兼の子常重(つねしげ)は、1126年(大治元年)大椎から千葉に移住し、千葉介常重と称しました(『千学集抜粋』)。

常重が名字の庄園とした千葉庄は、ほぼ同時期に八条院に寄進され成立したと見られています。

千葉庄は下総国内では最大級の庄園で、陸海の交通の拠点でもありました。

常重の所領は、千葉庄の他に相馬郡、立花郷(後の橘庄、香取市、香取郡東庄町)、麻績郷(香取市)などでした。

常重は継承した所領の拡充に努め、1130年(大治5年)には相馬郡内の所領を伊勢神宮に寄進して相馬御厨(そうまみくりや)を成立させ、この永代下司権(土地の支配権)を獲得しました。

常重は、千葉移住の九年後の1135年(保延元年)家督を嫡子の常胤に譲りました。

千葉常胤の活躍

常胤が家督を継承した翌年の1136年(保延2年)、下総国国司藤原親通(ちかみち)は公田官物の未進(税金の滞納)を理由に常重を捕え、相馬御厨と立花郷の割譲を要求してきました。

同時にこの事件を知った源義朝(よしとも)も相馬御厨の割譲を要求してきました。

常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後で滞納分を弁済して相馬郡司に任命されました。

また、義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、御厨の下司権を確保しました。

しかし、平治の乱(1159年)で義朝が平清盛に敗れると、この所領は国に没収されてしまいました。

こうして常胤は継承した相馬御厨と橘庄の権利を全て失うこととなり、20年余りにわたる努力は無駄になってしまいました。

しかし、1180年(治承4年)源義朝の子、頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて房総に逃れてくるといち早くこれに味方する意向を示し、さらに頼朝に対して鎌倉に本拠を構えることを進言するなど鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たしました。

その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、この功績で常胤は失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方、九州地方など全国で20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は幕府の中でも屈指の御家人に成長しました。

獲得した所領は、その後常胤の6人の子、胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗りました。

これを千葉六党(ちばりくとう)といい、惣領である千葉介を中心に一族が強固に団結していました。

千葉介常胤像<安西順一作「千葉介常胤像」>

その後の千葉氏

九州千葉氏

千葉氏略系図2千葉氏は九州の北部(今の佐賀県)に領地を持っていました。

そのため蒙古襲来の時、幕府の命令で頼胤と宗胤の親子が元と戦うために九州へと出かけました。

しかし、頼胤は戦いでうけた傷がもとで九州で没し、宗胤は、元が三度攻めてくる可能性があったため九州から離れることができませんでした。

そこで、千葉氏の本家は弟の胤宗が継ぐことになり、ここで千葉氏は九州千葉氏と下総千葉氏に大きく分かれることとなりました。

一族の分裂

室町時代以後、千葉一族は次第に分立・独立することによって衰退していきました。

やがて室町幕府の出先機関である鎌倉府の内部において鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の間に内紛が生じると千葉一族もその争いに巻き込まれて両派に分かれて争うようになりました。

そして1455年(康正元年)に公方派であった千葉一族の馬加康胤や原胤房は、上杉派であった千葉介胤直の居城、千葉城を攻めました。

この戦いで千葉城は落城し、康胤は、多古に逃れた胤直一族を追い、ついにこれを滅ぼしました。

本佐倉城へ

千葉介胤直一族を滅ぼした馬加康胤は、千葉氏本宗を継承しましたが、その子孫は千葉城を放棄し、文明年間印旛郡大佐倉に新たな城(本佐倉城)を築き移りました。本佐倉城は印旛沼の南岸に位置し、印旛沼・利根川の水運を掌握する絶好の地であり、馬加系千葉氏が属した古河公方とも水運で繋がっていました。

千葉氏の滅亡

馬加千葉氏略系図その後、第1次国府台合戦、第2次国府台合戦を経て古河公方が衰えると戦国時代後期には小田原城を本拠とする後北条氏に従うこととなりました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城を攻めると、千葉氏の当主であった重胤(しげたね)は一族とともに小田原城に入城しました。

その後、後北条氏が百日余の籠城の末、秀吉に降伏すると後北条氏に従った千葉氏も所領を没収され、ここに関東の名族といわれた千葉氏は滅亡することとなり、約470年にわたる下総国を中心とした房総半島北部の支配に終止符を打ちました。

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