旅の日(5月16日・奥の細道出立の日)
二荒山さらに芭蕉のやどりかな 高資
(二荒山=男体山=黒髪山=大国主命=日本最古の医神)
補陀落へ階つづく雲の峰 五島高資
補陀落の茂る二荒山(ふたあらやま)神社 高資
宇都宮二荒山神社
https://okatsubo.com/2018/12/01/%E6%97%A5%E5%85%89%E3%81%A8%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E3%81%AE%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F/
【日光と宇都宮の二荒山神社の謎を解く】
2つは系列なのか別物なのか?
初詣のシーズンがまもなくやって来ます。(これを書いているのは2018年12月1日です)日光や宇都宮にある二荒山神社に行く方もいると思いますが、この2つの神社は同じ系列の神社なのか全く別物なのか皆さんはご存じでしょうか?私は自分の住んでいる町の神社の役を長年やってきたこともあり、神社の歴史に興味を持っています。よく地元の長老の方から「2つの神社は関係が無いし、二荒山神社の読み方も違うので間違わないように」と言われていました。それまでは日光と宇都宮の二荒山神社はてっきり同じ系列かと思っていたのでびっくりしました。(日光が本家で宇都宮が分家と思っていたのです。)
2つの神社は祭っている神様も違うし、読み方も以下のように違います。(しかし、宇都宮ではたいてい混同して使われています)
日光二荒山神社・・・ふたらさんじんじゃ
宇都宮二荒山神社・・ふたあらやまじんじゃ
宇都宮二荒山神社の社殿
日光二荒山神社の社殿
2つの神社は二荒山神社という同じ名前なのに、どうして関係のない別々の神社なのかずっと疑問に思ってきました。最近その疑問に答えてくれる以下の本を読んだので今回ご紹介します。
「日光の三神」日光と宇都宮の関係を考える(吉野薫 著、下野新聞社発行)
1.何故2つの神社が二荒山神社という名前なのか?
明治時代に入って政府によって「神仏分離」が行われ、日本の神社から仏教色を排除したことで日光と宇都宮の2つの神社も改名されたそうです。
宇都宮:宇都宮明神→宇都宮二荒山神社
日光: 日光権現 →日光二荒山神社
それではどこから二荒山神社と言う名前が来たのでしょうか?本の説明では平安時代中頃(西暦900年代)に成立した「延喜式」(えんぎしき)という法典集の中で神社の格式を定めた「延喜式神名帳」に由来すると書かれています。神名帳の中では下野国の中で一番格式が高い神社が「河内郡二荒山神社」であると記されており、一つしか無い最高位の「大社」という階級になっていたといいます。
「大社」という最上級の階級の神社はその昔、中央から役人が赴任すると、最初に参拝する神社ということになっており、このような神社は「一の宮」と呼ばれていました。
2.二つの神社の主張の違い
現代風に考えれば「河内郡二荒山神社」という表記からすれば宇都宮の二荒山神社の方が昔は格式が一番高かったと思われますが、過去の文献では「日光も昔は河内郡だった」とか「宇都宮の二荒山神社は日光の分家だった」という相矛盾する内容のものが多数存在するそうです。そういうわけで日光側と宇都宮側はいまでも双方譲らず、「うちの神社こそ下野一の宮の大社である」と主張しており、決着をみていないそうです。
3.二つの神社はその昔、二荒山神社と呼ばれていた時代があった
日光も宇都宮の神社も太古には神社の成り立ちから二荒山神社と呼ばれていたそうです。だからこそ明治の神仏分離の時に二荒山神社の名前に戻そうと考えたわけです。
日光二荒山神社・・・男体山はその昔、神の住む補陀洛山(ふだらくさん)と呼ばれておりフダラクからフタラに転じ、二荒の字が当てられ、神社の名前になった。(これ以外にも諸説あるそうです)
宇都宮二荒山神社・・・宇都宮の神社が二荒山を名乗った理由は諸説有り、決定打が無いようです。この本の著者は農耕地であった河内郡では日光男体山の二荒神を農業の神として祭ったのではないかという考察をしています。
そういうわけで現在もなお、古代の延喜式に記載されている二荒山神社は日光なのか、宇都宮なのかという論争は続いているそうです。
(補足)
宇都宮の二荒山神社に行くと「延喜式内二荒山神社」という表示がいくつもあります。うちこそ本家と主張しているんですね。
磐座のうからやからや冬紅葉 高資ー 場所: 日光二荒山神社
http://nikko.4-seasons.jp/nikko/faith.shtml 【山岳信仰の道場/聖地・浄土】
男体山登拝講社大祭
勝道上人が日光を開いて以来、神仏習合の時代が続き、高い山には神仏が宿るといった山岳信仰の聖地・浄土として、多くの山岳修験者により日光が紹介されていったと推測できる。
ゆえに、男体山は父神(信仰の中心)、大己貴命(おおなむちのみこと)すなわち大国様であり、千手観音でもある。同じように、女峰山は母神で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり阿弥陀如来でもある。さらに、太郎山は子神で、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音でもある。
このように、家族形成をもった山は、山岳信仰と神道・仏教の考え方が違和感なく同居(神仏習合)していたのである。現代人には一見、複雑なように思えるが、日光の歴史を深く知るうえで欠かす事のできない知識である。
こうした神仏習合のあり方は、1868(明治元)年の神仏分離令を境に改められ、日光も1871(明治4)年に神仏分離が行われ、一時は数多くの寺が併合されるなどしたが、神仏分離令による日光の苦難を落合源七と巴快寛が東北巡幸途上の明治天皇に直訴し、現在の世界遺産日光の社寺は元の姿に復元することが出来た史実がある。
色変えぬ杉や難斗米の実の点る 高資
大国殿(重要文化財・世界遺産)・大国田道間守ー 場所: 日光二荒山神社
卑弥呼あるいは垂仁天皇が常世国に派遣した難升米(難斗米・田道間守)が右手に非時香菓(不老長寿の仙薬)を持っていました。橘(非時香菓)は黒田家の替紋にも用いられています。黒田の黒も大黒に由来するのかもしれません。たしかに筑前守ですから筑紫の日向の橘とも関係ありそうです。写真は、東照宮大鳥居の石柱(一部)で黒田筑前守藤原長政が寄進したものです。
雲を吹く男体山や秋の湖 高資
いただきを見守る雲や冬木立 高資
男体山
芭蕉の『奥の細道』で曾良が「剃捨て黒髪山に衣更」と発菩提心を詠んだ霊峰・男体山です。
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