勝利の歌

雲を見てイメージすることは人それぞれですね。イメージ内容こそ自分の心の反映でしょうか?黒雲から抜けた光輝く雲は 勝利の歌を歌う姿に見えてしまいます。

先日のシェア記事を連想します。

踊り念仏~~~いいですね。全身の筋肉を巻き込み(踊り)ながらの念仏は念をもって潜在意識まで届くことでしょうね。信心なしでも唱えるだけの念仏は まさにソリューション・フォーカスト・アプローチの効果を得て、脳回路を念仏を信じた脳に整えてくれることでしょう。

ごとう 孝二

5月23日 7:32

「人生は修行でなく遊行」

鎌倉時代の仏教の僧侶で、時宗を興した一遍上人は、

別名を遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とも呼ばれ、

人生は「修業」ではなく、「遊行」だと説きました。

一遍上人はたいへんユニークな

「踊り念仏」という方法で、

自分のメッセージを全国に広めました。

現代風に言えば、「クラブ念仏」とか「ディスコ念仏」とでも

呼べるでしょうか。

要するに、楽しく踊りながら、念仏を唱えればいいんだ

というのです

人生は、つらく苦しい「修業」の旅だという大前提に立って

生きていくと、

はたして、

まったくその通り、望み通りのつらく苦しい体験をすることになります。

私たちは、苦しむために生まれてきたのでしょうか?

いいえ、断じて違います

私たちは、泣いて苦しみ、のたうちまわるために、

この世界にやってきたのではありません。

この生命を輝かせるために、この世に生を受けたのです✨

そして、

私たちは、この星に遊びに来ています。

宇宙という魂のふるさとから太陽系の惑星(地球)に

2泊3日の観光旅行に来ているのだと思えばいい。

人生は、「修業」ではなく、「遊行」

だからこそ、どんな出逢いも、どんな出来事も、

「ほう、なるほど、そうきたか。けっこう意外だね。」

こんなふうに、にんまり楽しみながら、まるで人ごとのように、

映画の中の自分を観ているかのように、あらゆることを

味わい尽くして生きていきましょう^ ^

「修業」と思うから、

眉間にシワを寄せてしまうのです。

「遊行」だと思えば、どんな状況だって、楽しむことができます。

「転職したら変な上司がいた」というのも遊行。

「引っ越ししたら、おかしなお隣さんがいた」というのも遊行。

そんなおかしな人に出逢うのも、

人生を楽しむオプショナル・ツアー

なのです。

佐藤 伝ちゃんブログより。

http://www.jishu.or.jp/jishu-shumusho/about-ippen-shonin   【一遍上人のご生涯】

宗祖一遍上人 | 延応元年(1239)~正応2年(1289)

◆出生と入門

一遍上人は延応元年(1239)、伊予(愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として誕生されました。幼名は松寿丸といい、父は河野七郎通広、祖父は河野四郎通信です。

10歳の時、母を亡くし、父の命を受けて仏門に入られます。13歳になると善入という僧に連れられ、九州で聖達上人、華台上人(共に浄土宗西山派)のもとで修行されました。大宰府の聖達上人のもとで12年間浄土門を学んだ一遍上人でしたが、父の訃報を受けて一度故郷に帰られます。

この時の生活は、半僧半俗、つまり僧侶として勤行などはするけれども、日常生活は家族と共に過ごすというような暮らしをされていたようです。

◆再出家

このような生活が8年続いた頃、親類間のいざこざがもとで、一遍上人が襲撃される事件が起きました。この争いが何なのかは伝わっていませんが、ともかく一遍上人は事件をきっかけに一念発起し、故郷伊予を旅立たれます。

最初に訪れたのは信州(長野県長野市)の善光寺でした。ここで「二河白道図」を写して自分の本尊とされました。「二河白道」とは、唐の善導大師が“旅人・二河(火の河、水の河)・一本の白い道・阿弥陀如来・釈迦如来”を用いて、極楽往生を願う人の信心を表した比喩です。一遍上人はこの善光寺での参籠によって、人々への化益を強く決心されました。

◆遊行へ

再び修行する決心を固められた一遍上人は、故郷へ戻り、窪寺という閑室にこもり一人念仏三昧されます。この三年間の参籠の間に「十一不二頌」(一遍上人の悟り境地を表す漢詩)を感得されました。

そして、文永10年(1273)菅生の岩屋寺での参籠を経て、家や土地など一切を捨てた遊行の旅に出られました。同行者は、超一、超二、念仏房、聖戒です。ただし、聖戒とは桜井(愛媛県今治市)で「臨終の時は必ず再会しましょう」と約束して別れています。

まず、当時極楽の東門の中心と考えられていた四天王寺を訪れた一遍上人は、本尊に念仏勧進の願を立てて、それを生涯の使命とされました。一遍上人は遊行によって、学問や理論ではなく、「念仏をとなえて極楽浄土へ往生する」という仏教的実践、つまり余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧めたのであり、それが念仏勧進でした。

一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書かれた念仏札を配られましす。算を賦、結縁すること、これが「賦算」です。

◆熊野での成道

第三巻 第一段 熊野権現に出会う

「一遍聖絵」第三巻 熊野権現に出会う

遊行・賦算をしながら、熊野へ向かっていた道中、ある出来事が一遍上人を思い悩ませます。

熊野山中で出会った一人の僧に念仏札を受けるように勧めたときに、信心が起こらないので受け取れないと拒否されたのです。一遍上人は、ここでこの僧が念仏札を受けなければ、周りにいる他の人も念仏札を受けないのではないかと思い、無理にその僧に念仏札を与えました。

自らの布教方法に疑問を持った一遍上人は、すぐに熊野本宮証誠殿に参籠し熊野権現の啓示を仰がれます。すると、熊野権現が現れて次のように示されました。

「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、阿弥陀仏が十劫という遠い昔、正しいさとりを得たときに決定しているのである。信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなくその札を配るべきである。」

この熊野権現の神託によって一遍上人は他力本願の深意をさとられます。(成道)

時宗ではこの時をもって開宗と定めています。【文永11年(1274)】

◆遊行の佳境

一遍上人は熊野を後にすると、四国を通って九州へ入り、師である聖達上人を訪ねて“一遍の念仏”について説かれました。聖達上人は一遍上人のさとりの境地にたいへん感銘を受けられたそうです。

また、後の二祖他阿真教上人に出会われたは、この九州での遊行中でした。一晩中お二人は語り合い、すぐに真教上人は時衆へご入門を果たされたのです。

九州を出ると、四国、中国地方、京都、信州、関東、東北へと一処不住で回られます。

信濃国佐久(長野)の小田切の里では、阿弥陀仏の救い、念仏往生への嬉しさと喜びのあまり、一遍上人をはじめ時衆らが踊りだしました。これが踊り念仏の始まりです。

弘安5年(1282)鎌倉入りを目指した一遍上人を武士が制止します。武士に棒で叩かれながらも一遍上人は「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。一遍上人の衆生化益への強い意志がうかがえます。武士が鎌倉の外は布教が禁止さてていないことを告げると、一遍上人らは片瀬(神奈川県藤沢市)へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

弘安7年(1284)京都逗留の際には、一遍上人の念仏札を求め、人々が貴賤問わず押し寄せる様子が『一遍聖絵』に描かれており、当時その名が都にまで届いていたことが分かります。

その後も全国各地を巡り、数多くの人々を化益され、その数は16年間で25万1724人にのぼったと記録されています。

このように、「信心の有無や心の浄らかさにとらわれず結縁を勧める」ことを信条に、一遍上人は民衆の中に入り、民衆とともに念仏信仰に生涯を尽くされました。「賦算(お札配り)」や「踊り念仏」をともなう念仏布教は、当時の民衆の心をつかみ、またたく間に一遍上人の説く念仏思想は日本全国に広がりました。

長い旅の終わりは正応2年(1289)8月23日、51歳の時。神戸の観音堂(現・神戸市兵庫区、真光寺)において時衆や信者らに見守られながら静かに示寂されます。

数多く残される遊行姿の肖像画や銅像からは、辛く厳しい生活ながらも、信念と清貧を貫き、宗教人に徹した偉容がうかがえます。

◆み教え

一遍上人は亡くなられる直前、所持していた経典を書写山円教寺の寺僧にお渡しになり、その他の書物は『阿弥陀経』をお読みになりながら焼き捨てられました。51年のご生涯で一冊の著書も残そうとはされず、ひたすら全国を遊行し「南無阿弥陀仏」の念仏札を人々に配る旅を続けられました。そのようなお姿から「捨聖(すてひじり)」、「遊行上人」と呼ばれ、人々や時衆から尊崇されます。

一遍上人の教えはのちに時衆(一遍上人に付き従っていた人々)がまとめた国宝『一遍聖絵』、『一遍上人縁起絵』、『一遍上人語録』など、限られた史料の中に見出すことができます。

この『一遍上人語録』の中に、一遍上人が追慕されていた空也上人(市聖と呼ばれ京都を中心に活躍された平安時代の僧)のお言葉を引き合いに出された法語があります。

この法語では、「捨てる」をキーワードに念仏する時の心構えを説かれました。


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