磯遊びぞろぞろ婆戻り来る 茨木和生
泉あり古墳をひとつ抜けたれば 同
ひぐらしや杉はますます真直ぐにて 同
http://sawarabi.a.la9.jp/kohun.htm 【古墳はなぜつくられたか】
古代史を学んでいますと、まず邪馬台国がどこにあるのかを問いかけますよね。箸墓レプリカ(国立歴博)
数少ない文字資料が残っているのは中国の史書で、興味深い記述があるのはどなたでもご存知の通りです。
邪馬台国の時代(もしくはその直後)には、巨大な前方後円墳がつくられています。
間違いなく当時の首長が葬られています。
この前方後円墳という世界にも類を見ない奇妙な形をした墳墓が当時の王権を象徴するものとして、今日の私たちでもたやすく目にすることができます。
「前方後円墳」がなぜつくられたのか、考えてみようと思っています
この変わった形状をした墓が、巨大化し古墳時代の権力者のシンボルになっているのにはどんなわけがあるのか、誰しも疑問に思うことです。 この形状は、上から見るときちんとした形になっているのです。
作られた当時に上から見たとは思えないのですが、この形にするための設計図があり規格化され築造されたことは間違いないようです。
となると、なぜあの形が誕生したのか、そして全国的に普及したのはなぜか、また現代にまでは継承されずなぜ消滅したか、そういった疑問が次々にわいてきます。
これらの問いに歴史学・考古学は答えを出すことができるのでしょうか。
歴史区分でいわれる「古墳時代」は、前方後円墳の出現があったから特徴づけられたことでことは間違いないでしょう。
奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳の築造は、いわゆる定型化した前方後円墳の誕生とみられます。
そして前方後円墳を中心に、全国的に秩序付けられた時代になったというのが、「古墳時代」と命名された根拠であると思われます。
箸墓古墳を含む最古型式の前方後円墳を規定して、近藤義郎氏は以下の特徴を挙げておられます。(「前方後円墳の誕生」、『岩波講座日本考古学6』(岩波書店、1986)所収)
① 後円(方)部は高く、前方部は低いが、前方部の頂はくびれ部上面よりも高い。後円部と前方部の長さはほぼひとしい。前面に向って、前方部の側面がカーヴをなして開く撥形のものが定式化している。
② 外表斜面に葺石がふかれることがほとんどである。
③ 墳頂(後円部にしろ前方部にしろ)に、特殊器台形・壷形埴輪ないし壷形土器が置かれる。
④ 棺は長大で割竹形木棺という定式があり、それをのせる堅固な棺床、それをかこう長大な竪穴式石室がある。
⑤ 副葬品において中国鏡なかんずく三角縁神獣鏡の多数副葬指向がある。そのほか、武器・生産用具があり、時に玉を伴う。
これらの特徴は、突然に現れたものでないことがわかっています。
実用から離れた象徴化された土器を墳丘上にならべたり、鏡を副葬するのは弥生時代の墳墓でも行われていました。
そして近年の考古学的発見の数々は、「定型化した前方後円墳」に先行する墳丘墓の意義をさらに検討する必要が出てきているように思われます。
【出現の契機、前方後円墳の形状について】
私は、なぜあの形になったのかに興味があります。
誰がこの形状を考案したのか。それはどんな意味があるのか。
ただ幾何学的な組み合わせというわけでもないようです。
それに大王墓として採用されたのには、きっとわけがあると思うのが自然です。
「前方後円」のかたちについて、寺沢薫氏は『王権誕生』(講談社、2000)で今日の研究水準では2つの議論にまとまるとされています。
(1)弥生の周溝墓の通路の発達という、自然発生的考え。
(2)外的な要因や宗教的理由からを考える説。 これはさらに2つに分かれます。①円と方の合体説 ②壷型説
(2)の①円と方の合体説ですが、山尾幸久氏の旧説が参考になります。
ご自身はその説が誤りだと、自著で述べておられますので申し訳ないですが、考えるのに興味深い指摘なので取り上げます。
旧版『魏志倭人伝』(講談社現代新書、1972)において論じたことです。
山尾氏は、『晋書』武帝紀泰始2年(266)「十一月己卯(五日)、倭人来たりて方物を献ず。円丘・方丘を南・北郊に并(あわ)せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊に并す」。
また、十一月庚寅(一六日)の冬至には武帝「親ら円丘を南郊に祀る。是より後、円丘・方沢(=方丘)を別に立てず」(『晋書』礼志)とあることに着目し、朝貢した倭人の一行が見たものは何であったか、を問うたのです。
円丘・方沢(=方丘)は一つに合わされたのではないか、と・・・・
中国晋朝の郊祀制度は改定され、倭人は前方後円墳の誕生に出会ったのでしょうか。
山尾氏は金子修一氏の批判を受け容れ、解釈の誤りだとしてこの説を撤回されたのですが(『日本古代王権形成史論』岩波書店、1983)、私はこの時代の歴史的背景が妙に気にかかりました。
定型化・規格化された大型前方後円墳の成立には、中国の墓制と関わりがあると考えるのは充分、魅力的です。
ところが別の考え方もあります。(2)の②壷型説です。
山尾氏の旧説が正解であれば、倭人が新たな墓制の創出に当たって、晋の郊祀制度こそ直接的契機だったとなるわけですが、よく考えれば円と方の合体というのもおかしいように思えます。
「円」はいいのですが残りの半分は「方」とはいえないようです。
「前方部の側面がカーヴをなして開く撥形のものが定式化している」という特徴を持つ発生期の「前方後円墳」を素直に眺めてみると、前方部を上にして平面図を眺めますと「壷型」に見えてきます。
藤田友治氏は山尾説を丁寧に紹介した上で、問題点を指摘します。(『前方後円墳』(ミネルヴァ書房、2000)
(1)古墳は遺骸を埋葬する墓であるが、中国の場合は天神の円丘と地祗の方丘の合体であってそこに遺体はない。
(2)前方部と後円部の合体と考えるから郊壇説が生まれた。発生期古墳は「前方後円」墳ではなく、「バチ型」に開く壷型墳であった。
「壷型説」は、神仙思想との関わりがあるとする考え方です。
壷型=蓬莱山をイメージしているというのです。
副葬品として有名な三角縁神獣鏡などからも神仙思想がはっきり読み取れます。
三角縁神獣鏡が魏鏡か国産かという論争については論じませんが、神仙思想が流入していることは明白に見てとれるところです。
「壷型説」は岡本健一氏や、辰巳和弘氏がよく説かれています。
桜ヶ丘4・5号銅鐸の絵画モチーフが崑崙山の西王母と辰巳和弘氏は指摘します。(『「黄泉の国」の考古学』、講談社現代新書、1996)
割竹形木棺から長持型石棺への変化は、蓬莱山の亀を意識しているのかもしれませんし、三段築成は崑崙山が三層だったことに関係しているかもしれないなど、岡本氏は興味深い指摘をしています。(『邪馬台国論争』、講談社、1995)
倭の人々はどの程度理解したうえで、壷型を意識したのでしょうか。
前方後円墳の形状についての謎の解明ですが、私が壷型説に興味を持つのは、古代人の心のあり方に興味があるからです。
【「前方後円墳」の出現前夜の様相】
箸墓に見られるような大型化した「前方後円墳」が出現する前夜、祖形と思われる墳丘墓が見つかっています。
大和主導説の再検討を提唱された北條芳隆氏の研究にふれてみましょう。(『古墳時代像を見直す』共著、青木書店、2000)
たとえば徳島県の萩原1号墓ですが、弥生終末期、箸墓古墳よりほどさかのぼる時期つくられたと考えられています。
発掘されたのは1979年、その後道路の拡幅によって完全に姿を消した墳丘墓だそうです。
時代の古い古墳は香川県にもあります。
高松市にある「鶴尾神社4号墳」、この古墳も箸墓より古い年代につくられたと考えられているとのことです。
「讃岐型前方後円墳の完成形」と表現しています。
このように、東四国には前方後円墳の本場と考えられてきた近畿地方よりさらに古い古墳が存在していると北條氏はいわれます。
ところが、北條氏の師である近藤氏の『前方後円墳の成立』(岩波書店、1998)を読んでいますと、箸墓のほうが先行しその影響下にできたとされているようです。
この点、論点としては残っているのかもしれません。
ただし、この項では、箸墓に先行するという前提で書いています。
こうした事例は関東でも出現しています。
神門5号墳
千葉県市原市の神門古墳群も有名になりましたが、先ごろ(2002年12月14日)海老名市文化会館で開催された秋葉山古墳群をめぐるシンポジウムでも出現期古墳について論じられました。(シンポジウム「墳丘墓から古墳へ-秋葉山古墳群の築造-」)
秋葉山古墳群は神奈川県の中央部、相模川左岸の丘陵部に位置し、3世紀後半頃から4世紀後半頃まで、数世代にわたって連続的に造営された一系列の首長墓と考えられています。
最近の調査によると、3号墳は、定型化された前方後円墳の出現以前にあたる段階の前方後円形の墳丘墓である可能性が、指摘されています。
西川修一氏(神奈川県立県立中沢高等学校)による「関東地方の古墳出現期の様相」と題する報告では、3世紀前葉から後半にかけて、「突出部を持つ首長墓」の広域展開が見られ、千葉県の市原市神門古墳群や木更津市高部古墳群などとともに、秋葉山3号墳が同様な事例とされました。
「突出部を有する高塚墳を築造する社会」が現出された時代と理解することが、可能になってきたとのことです。
特別講演の甘粕健氏は、ヤマト中心史観への批判が若手研究者から唱えられる昨今に対して、反対論を展開されました。
甘粕氏の論を参考までに書いておきます。
① 秋葉山3号墳が箸墓古墳に代表される定型化した前方後円墳が出現する直前の纏向型前方後円墳である可能性が高い。
② 箸墓出現前夜には前方部が短小な纏向型タイプと、東部瀬戸内に分布する細長い前方部を持つ讃岐鶴尾神社型のタイプがある。 また前方後方形の墳丘墓が濃尾平野と近江に発生、東日本に拡散。 讃岐鶴尾神社型の墳形は箸墓に継承。纏向型と前方後方形はそれぞれ帆立貝形古墳と前方後円墳として全国展開。 纏向型、鶴尾型の年代はどちらを先行とするかは断定しない。
③ 纏向型前方後円墳は、大和を起点にし、前方後方古墳の回廊を飛び越し南関東に伝播。 次の段階で箸墓モデルの前方後円墳が全国に拡散。 秋葉山3号墳や神門古墳群はその先駆。
秋葉山古墳群は3基の前方後円墳(3号墳→2号墳→1号墳の順に築造)、1基の前方後方墳(?)、1基の方墳からなりますが、甘粕氏はこれらが、ヤマト王権との結びつきがあると想定されています。
さらに九州にも最新の事例として、柳沢一夫氏(宮崎大教授)らの調査による宮崎市檍(あおき)1号墳が注目されます。
調査によると、檍1号墳は長さ51メートル。形状はホケノ山古墳と同じく前方部が短い「纏向(まきむく)型」だったとのこと、そして、この檍1号墳からは3世紀末~4世紀前ごろの木製墓室、木槨跡が確認されています。
木槨跡は長さ7.2メートル、幅4メートル、高さ(推定)は1.5メートルで国内最大ということです。
日本考古学協会第69回(2003年度)総会(2003年5月25日)での発表もあるようですので、詳細は掲示板にあらためて書くことにしましょう。
【ホケノ山古墳は箸墓に直接先行するか】
さらに近畿の事例です。寺沢薫氏のいわゆる「纏向型前方後円墳」が存在します。 『王権誕生』p259から図を引用します。
後円部が未発達なことが特徴です。
重要な点として、原型が吉備の楯築墳丘墓にあるとされています。
「纏向型前方後円墳」の一例、纏向遺跡に隣接する「ホケノ山古墳」を見てみましょう。
場所は図の通り。緩やかな丘陵上に位置し、 纒向遺跡の南東端に位置します。
全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの、前方部を南東に向けてつくられた前方後円墳です。 墳丘の表面には葺石があり、周囲には周濠を巡らしています。
石囲い木槨、コウヤマキ製の長大な刳抜式木棺、二重口縁壷、画紋帯神獣鏡の出土などもあって興味をそそります。
この古墳がつくられた時代こそ卑弥呼の時代だったかもしれません。
このような様々の事例は、前方後円墳出現前夜に、墳丘形態が変容しつつあったことを物語っています。
箸墓古墳は突然出現したのでしょうか。
時系列な経緯を正しく理解しなければならないと思います。これもまた結論は持ち越しになります。
【「前方後円墳」誕生の実年代はわかるか】
絶対年代を知るための手がかりがあるとすれば、墓誌の発見ですが、現在それは望み薄のようです。
年輪年代法によって実年代を探る試みが成果をあげています。
例えば、纏向の勝山古墳出土木材の年代測定結果が発表されていますが、これによると伐採年代は、新しく見積もっても西暦210年頃との推定がなされています。 (http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm)
第1表 勝山古墳出土木材および木製品年輪年代測定結果
資料№ 調査次数 遺物№ 部材名 樹 種 年輪数 年 代 形 状
1 第4次 132 板 材 ヒノキ 109+1 198+1A.D. 辺材型
2 第4次 204 柱 材 ヒノキ 115 131A.D. 心材型
3 第2次 104 柱 材 ヒノキ 191 129A.D. 心材型
4 第4次 172 板 材 ヒノキ 120 129A.D. 心材型
5 第4次 160 断 片 ヒノキ 176 103A.D. 心材型
こうした年輪年代測定結果によると、全体的に古墳時代の開始年代を古く遡らせる効果があるようです。 ただし邪馬台国=ヤマト説と結び付けたがる傾向は避けたいと思います。
すなわち、この年代観をベースに相対年代を加味し箸墓古墳の年代想定しますと、250年~300年ごろになるかもしれません。
相対年代は出土土器の編年が目安となります。
1998年の桜井市の調査では、築造当初から後円部と同時に構築されたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器の内、最も新しいものは布留0式土器群でした。
「周濠の埋没時期、前方部での調査成果などを考え合わせると箸基古墳の築造が布留0式期の中で完結していることはほば間違いないものと考えられます。」と述べられていますが、これを3世紀後半の資料と断定できるでしょうか。
あくまで相対年代です。 以前は、古墳時代の始まりが4世紀だと考えられていたのですから、無理やり邪馬台国の年代に近づけるのも、慎重に考えるべきではないかと思っています。(http://www2.begin.or.jp/sakura/hasihaka1.htm)
宮内庁の調査もあります。
「墳丘部から、吉備地方(現在の岡山県)で主に出土する特殊な土器や、最古型の埴輪などの破片が三千点以上出土していたことが平成12年5月17日(水)、宮内庁の調査でわかった。箸墓古墳は、宮内庁が陵墓として管理しているため、発掘は規制され、これほど大量の遺物の出土は初めてであった。」このことは、被葬者と吉備地方の勢力が深く関わっていることを改めて裏付けるとされています。
最近では、二重周壕であったことが確認されるなど、箸墓の年代をめぐる論議もさらに具体化しそうです。以下は寺沢説でしょうか。(http://www.nara-shimbun.com/n_arc/arc0307.html)
「出土した土器の形式から、築造時期を260-280年ごろと推定。被葬者について、248年ごろに死んだ女王卑弥呼や続いて即位した女王壹与ではなく、その次に擁立された男王だった可能性を示した。」
【古墳はなぜつくられたか】大三輪から見た箸墓
私は、古墳とりわけ「前方後円墳」に結実した墳墓の形は古代人の「死」に対面するに当たっての観念が凝縮したものとして形成されたと考えています。
流入した中国の思想を果敢に取り込みつつも、独自の形に纏め上げた創造力も感じ取らなければならないと思っています。
多くの労働力を投下し巨大なモニュメントとして「前方後円墳」は成立しました。
これらは、日本列島に一つの時代をもたらした記念碑でもありました。
弥生時代の到来以来、人々は新しい暮らしのあり方を会得し、多くの恵みを自然からそして、祖先の懐に抱かれた感慨を常に味わうことができた時代がやってきたのです。
人と人との戦いを通してだけではなく、自然を克服するには見えない祖霊に守られながら生きることは必要であったことでしょう。
その中で、喜びや誇りそして恩寵を感じた暮らしだったのではないでしょうか。
しかしこの後、大陸、朝鮮半島はさらなる激動の時代を迎え、日本列島ではさらに多くの人々の渡来を受け入れていくことになります。
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