研究問答41 - 身心変容技法研究会
waza-sophia.la.coocan.jp/monndou41.htm
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地上天国モデルを世直し運動として提示した出口王仁三郎は、「草木国土悉皆成仏」の世直し神道バージョンだ。 ... 及ばずながら、拙著『南方熊楠と宮沢賢治―日本的スピリチュリティの系譜』(平凡社新書)は、未来への指針、コンパス(羅針盤)として、「二人のM・K(南方熊楠と ... この「病気・不安・差別」という「負のスパイラル」を加速させ、「 パンデミック化」させないような、日赤や、国境のない医師団や、かつてのアルバート・ シュヴァ .
研究問答43 - 身心変容技法研究会
waza-sophia.la.coocan.jp/monndou43.htm
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それは1910年のハレー彗星インパクト、 1920年のスペイン風邪パンデミックでも明らかになった問題です。 これらの時代を生きた南方熊楠や宮沢賢治、出口王仁三郎といった先人たちは、 当時どのような思想や文学を紡ぎ、運動を展開していったのでしょうか。
宮沢賢治の真実 - 一条真也の読書館
www.ichijyo-bookreview.com/2017/11/post-1490.html
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数多い宮沢賢治の研究本の中で、本書の大きな特色は、賢治の妹とし子の恋愛スキャンダル、賢治の初恋の相手とされる保坂嘉内に着目したことです。まずは、 ... 同時代に大本教の出口王仁三郎が唱えた「万教同根」と同じ考え方です。この時代は、 南方熊楠なども含めてスケールの大きい普遍思想の追求者が世界的に多く存在していました。 ... 賢治は浄土真宗の熱心な信仰者であった父への反発もあってみずからは日蓮宗を信仰し、のちに田中智学の急進的団体である「国柱会」に入会しました。
「日本的霊性」を問い直す - Core(Adobe PDF)
core.ac.uk/download/pdf/96953107.pdf →「日本的霊性」を問い直す京都造形芸術大学芸術学部教授 鎌田 東二 氏の記事です。
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彼は大正 9 年(1920 年)に「国柱会」に入信し、バリバリの活動家となります。 今で言えば、 ... 治は日蓮法華系のかなり国粋主義的な傾向を持った田中智学という人物の思想. に心酔します。 ... さて、話を宮沢賢治に持っていく前に、「日本的」と言う時の日本の宗教文 ... きの一つとして、例えば南方熊楠の「神社合祀反対運動」があったと私は考え. ます。 ... 神道家・出口王仁三郎も民藝運動の指導者柳宗悦も「霊性」という言葉で自分.
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/index.html 【近代日蓮主義の敗北の原因について】 より
日蓮宗の僧侶で宗教学者の丸山照雄氏の『象徴天皇制とは何か』(河出書房新社)の8章「近代日蓮主義と超国家主義思想」は、頭山満、井上日召、田中智学、宮沢賢治、北一輝、高山樗牛、本多日生などの日蓮主義者たちを分類し、分析したものであるが、その中でも、田中智学の国柱会を、近代主義的日蓮主義であり、体制迎合的で、日蓮の宗教とは違う方向にいったものだと批判している。
丸山氏は、第二次大戦中の『日蓮遺文』中の、政府に不敬箇所の削除を求められたことを指摘し、さらに身延山久遠寺において起きた類似の事件を取り上げている。
「たびたび私事にわたることを記して恐縮であるが、田中智学のようなプラグマティックな「日蓮主義」が近代日蓮門下のすべてを覆っていたというのは早計である。また明治期の日蓮門下の信仰のあり方をトータルに集約したのが田中の「日蓮主義」でもなかった。たしかに彼の影響は広く及び、田中の「日蓮主義」は一世を風靡したにはちがいないが、その影響下にあり、彼を尊敬していた私の父などは、こと宗教的価値観において「国家=天皇」と「法華経=日蓮」の関係を逆転させるようなことはできなかった。まことに無智で凡愚な僧ではあったが、だからこそ父は明治の僧の基本的な姿勢を代表し得るものではないかと思うのである。
例えば、大戦中、日蓮の「御真骨」(遺骨)について、身延へ参詣した某宮家の発言が契機となって問題が起こった。日蓮の廟所には遺骨の一部が埋骨されており、大部分は身延山久遠寺の「御真骨」に奉安されているのであるが、その事を見聞した某宮は、「墓に骨が入っていないというのはおかしいじゃないか」というような言辞を吐いた。当時のことであるからこの発言が寺側の正式の会議でとりあげられ、「宮さまのお言葉だから廟所へご真骨を遷座しなければなるまい」ということがはかられた。その時父は「宮様がなんといおうが天皇さまがなんといおうが、身延山には伝統があってそう軽々しくものごとを処理することはできない。例えば、深草の元政上人が身延へ参拝し、ご真骨を拝して、どのような感慨をもたれたか・・・」と元政上人の歌一首を読みあげて反論を行なった。発言の内容よりも、「宮さまがなんといおうと、天皇さまがなんといおうと」という言辞はまさに不敬罪に問われる内容であった。父は抵抗や批判の意識でそう言ったのではなく、明治の僧の「常識」で自然にそう言ったまでであったのである。(父は明治十二年生まれで十九年に寺の小僧となった)だが、昭和十六(一九四一)年頃のことであるから問題はそう簡単にはおさまらなかった。時代状況を見はからってものを言う才覚のない父は、まずここでつまずいた。次は大戦も末期、銅製品の回収が行なわれたのであるが、この時寺からは多量の仏具・仏像・鐘などが供出されていった。父は「寺に国家が何か奉納でもして戦勝を祈願するというのならわかるが、寺のものを持ち出していって弾丸をつくるようでは勝てるわけがないじゃないか」というふらちなことを言ってしまった。これもまた警察ざたになった。
明治育ちの父のメンタリティーを見ていると、私など昭和ひとけた代生まれの者がうけた天皇制イデオロギーの教育などというものは、ずっと後代になってつくられていったものであることをつくずくと思い知らされるのであった。父親のことを「この非国民め!」と子供ながら正直思っていたのである」
田中智学は、近代という観念に取り憑かれ、文明開化を内面化したような人だったようだ。それに対して、丸山氏の父親は、いわば、「田舎坊主」であって、ただひたすら日蓮信仰の伝統に生きていたために、時代の最先端の超宗教主義と無意識にぶつかってしまったのである。
近代科学の世界と仏教的な宇宙観が、混じり合った宮沢賢治の文学世界は、農民的世界・大地と格闘する中で、そこに学び、根ざすという思想的転回をとげた。近代農法を遅れた農民に啓蒙するという立場で出発した宮沢賢治の姿勢は、やがて、農民から学ぶという姿勢に転化した。国柱会の日蓮主義者といっても、いろいろだったのである。
今でも、宗教を近代主義と結びあわそうというモダニズム宗派があって、なんとかの科学だの心霊を科学するだのということを強調したりしている。しかし、例えば、キリスト教では、近代主義的神学の一種の自由主義神学が、ナチズムに対して無力であったことを批判したカール・バルトの弁証法神学が生まれ、戦後の世界のキリスト教(主にプロテスタント)に大きな影響を与えているが、その主張は、キリスト教共同体と市民共同体をはっきりと区別して、前者を霊による共同体、霊の指導する共同体であり、国家・市民社会とは明確に区別して、何よりも霊的共同体を目指すことを説いた。
それに対して、体制にぶら下がり、体制の庇護によって、宗派の発展をはかるというような自堕落な宗派は、内部腐敗していくに違いない。そうではなく、丸山氏の父親のような人が多くいる宗派は、腐敗にうちかつ力が大きいに違いない。
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