不老長寿を求めていた漢帝国の第7代皇帝・武帝

https://news.infoseek.co.jp/article/otonasalone_148540/  【「仙人掌」ってなんと読む?ヒントは「植物の名前」です!】

日本には漢字、カタカナ、ひらがなと3つの文字があります。中でも漢字はたくさんの種類があり、読み方もさまざまです。

種類も読み方も豊富な漢字は色々なものを表すことができますが、時に「え、なんて読むの…?」と考え込んでしまうような漢字に出会うことも。

そこで本記事では、意外と読めない漢字クイズを出題します。

本記事で紹介する漢字は「仙人掌」。「仙人」の「掌」と言われてもピンと来る人は少ないことでしょう。でも、この漢字、皆さんご存知の植物の名前を表しているんです!

この漢字を「せんにんしょう」と読んだ人もいるのではないでしょうか。「せんにんしょう」は本記事で紹介する正しい答えの別名なので、間違いではありません。

ですが、「せんにんしょう」と言われて植物の姿が思い浮かぶ人は少ないはず。

ヒントは「砂漠など乾燥した地域に生えているトゲトゲした植物の名前」です。

正解はこちら!

「さぼてん」です。

「仙人掌」と書く由来には諸説ありますが、本記事では不老長寿を求めていた漢帝国の第7代皇帝・武帝の話を紹介します。

武帝は手に大きな皿を乗せた仙人の巨像を建造しました。その皿の上にためた露に、不老不死の仙薬と呼ばれた「玉の屑」を混ぜて飲むためです。この皿を手に乗せた仙人の像は「仙人掌」と呼ばれ、その姿がサボテンと同じような形だったことから「仙人掌=サボテン」となりました。

なお現代の中国では、サボテンのタイプごとに表し方が違うのだとか。「仙人掌」が表すサボテンは、うちわのように平たいタイプで、球形のサボテンは「仙人球」と表します。

現代の日本では「サボテン」とカタカナで表記することが一般的ですが、どちらのタイプのサボテンであっても「仙人掌」で問題ありませんよ。


http://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20190712.html 【「中国」を作った四人の帝王 漢民族四千年の栄光と悲惨】  より

現在の中国はなぜ、西洋とも日本とも違う、あのような国になったのか。GDPが増えても、海外の情報が伝わっても、なぜ中国は変わらないのか。その理由は過去四千年の歴史にあります。「中国」を作った四人の帝王にスポットをあて、映像資料も使いつつ、漢民族の歴史と現在をわかりやすく解説します。

7/12 黄帝 中華民族の共通祖先

 現代の中国は多民族国家を標榜しています。中華民族の復興、というスローガンをかかげ、中華民族の共通祖先としての黄帝を持ち上げています。約五千年前の伝説の帝王である黄帝は、歴代の王朝の祭祀を受けただけでなく、中国共産党も政治的に利用しています。日本では「ユンケル黄帝液」で知られる黄帝の虚像と実像を解説します。

7/19 始皇帝 中華帝国の創始者

 紀元前3世紀の始皇帝は、その名のとおり最初の皇帝です。彼の秦王朝はわずか二代で滅びましたが、彼が創始した皇帝が君臨する帝国というシステムは、なんとラストエンペラーこと溥儀が退位する20世紀まで続きました。「一つの中国」と中央集権、というシステムは、21世紀の中国共産党も引き継いでいます。始皇帝の生涯と、彼が設計した中華帝国、現代中国における始皇帝の評価について解説します。

7/16 武帝 東アジアに残した影響

 中国の歴代王朝の中でも、2千年前の漢は強大な帝国であり、今も漢民族の誇りです。「漢字」「漢民族」の語源も、漢王朝です。前2世紀、前漢の最盛期に君臨した武帝は、領土を拡張し、儒教を国家教学化し、元号の制度を始めるなど、日本を含む東アジアの歴史に大きな影響を残しました。武帝の生涯と、現在の日本や朝鮮半島にまで残る彼の影響について解説します。

8/2 洪武帝 漢民族の栄光と悲惨

 明は、中国史上、最後の漢民族系王朝です。明は、鄭和の遠征など強大な国力を誇示する一方、内政面では恐怖政治や腐敗など陰惨な面もありました。14世紀、貧農から身を起こした朱元璋は、明王朝の初代皇帝・洪武帝となったあと、晩年の毛沢東と同様、残酷な粛清を繰り返しました。洪武帝の波乱に満ちた生涯と、その栄光と悲惨を、現代中国と比較しながら、わかりやすく解説します。

 武帝 東アジアに残した影響

別名:廟号(びょうごう)は世宗。姓名は劉徹

生没年:前156年-前87年(享年七十) 在位は前141年-前87年(足かけ55年)

主な事蹟:高祖劉邦の曽孫、前漢第7代の皇帝。儒教の国家教学化を公認、政治や文物の制度を強化、四方への外征を盛んに行った。

評価:武帝の時代の中国の国力は、ざっくり見積もって始皇帝の時代の二倍になっていた。武帝は政治・経済・文化の面で強大な中華帝国を作ることに成功したが、国庫の蓄積を蕩尽したり、専売制により民生を圧迫するなど、その功罪をめぐる評価は今も論議が尽きない。

〇さまざまな「武帝」

「武帝」という諡号(しごう)を死後におくられた帝王は多い。

 単に武帝と言うと「漢武」こと前漢の武帝(劉徹)を指すことが多いが、魏の武帝(曹操)、西晋の武帝、梁の武帝、その他を指すこともある。

南越の武帝(趙佗)

前漢の武帝=世宗孝武皇帝(劉徹、在位紀元前141年 - 紀元前87年)

三国時代の魏の太祖武皇帝 - 曹操への追諡。曹丕(文帝)による。

西晋の世祖武皇帝(司馬炎、在位265年 - 289年)

五胡十六国時代の成漢の太宗武帝(李雄、在位304年 - 334年)

五胡十六国時代の後趙の太祖武皇帝(石虎、在位334年 - 349年)

南朝の宋の高祖武皇帝(劉裕、在位420年 - 422年)

南朝の斉の世祖武皇帝(蕭賾、在位482年 - 493年)

南朝の梁の高祖武皇帝(蕭衍、在位502年 - 549年)

南朝の陳の高祖武皇帝(陳霸先、在位557年 - 559年)

北周の高祖武皇帝(宇文邕、在位560年 - 578年)

後唐の太祖武帝 - 李克用への追諡。荘宗光聖神閔帝(李存勗)による。

〇武帝に関連する成語

★傾城傾国(けいせいけいこく)、傾国の美女・・・李夫人の故事

★歓楽極まりて哀情多し(かんらくきわまりてあいじょうおおし)・・・武帝が詠んだ漢詩「秋風辞」の一節「歓楽極兮哀情多」から。楽しみ尽きて哀しみ来る。

★張騫鑿空(ちょうけん さくくう)・・・武帝が張騫(ちょうけん ?-前114年)を西域に派遣した故事

★星槎を泛かぶ(せいさをうかぶ)・・・俗世間を離れること。張騫が筏(いかだ)に乗って天の川まで至った、という説話に基づく。

★汗血の馬(かんけつのうま)・・・汗血馬(かんけつば)。武帝が、寵愛している李夫人の兄・李広利を「弐師将軍」に封じて西域の大宛国に遠征させて獲得した駿馬の種類。血のように赤い汗を流し、一日に千里を走ったという。

cf.坂崎紫瀾(さかざき しらん)の伝記小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)・・・坂本龍馬が有名人になるきっかけとなった小説 ★反魂香(はんごんこう)・・・武帝が李夫人と死別したあと、道士に命じて霊薬を金の炉で焚き上げさせ、煙の中に夫人の姿を見たという故事。日本の歌舞伎の『傾城反魂香』や落語『反魂香』の元ネタ。

★立子殺母(りっしさつぼ)・・・外戚(がいせき)の専横を未然に防ぐ目的で、息子を後継者に指名するのとあわせて、その生母を始末すること。武帝はその先例を開いた。

〇日本への影響

漢の四郡・・・武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡。

 なかでも、紀元前108年から西暦313年まで存在した楽浪郡は、『漢書』地理志によると戸数6万2,812戸、口数40万6,748人という当時としては大規模な行政機関であり、日本と中国の交流のうえでも大きな影響を与えた。日本の壱岐市にある「原の辻遺跡」では楽浪郡の文物と弥生時代の出雲の土器が一緒に出土している。

cf.トランプ大統領が「ウォール・ストリート・ジャーナル」のインタビューで語った問題発言

WSJ Trump Interview Excerpts: China, North Korea, Ex-Im Bank, Obamacare, Bannon, More(Apr 12, 2017 6:26 pm ET )より。“He then went into the history of China and Korea. Not North Korea, Korea. And you know, you're talking about thousands of years …and many wars. And Korea actually used to be a part of China.”

「彼(習近平主席)はその後、チャイナとコリア(朝鮮半島)の歴史を語りはじめた。ノースコリア(北朝鮮)でなく、コリア(朝鮮半島全体)の。それはつまり、数千年の歴史と・・・多くの戦争のことだ。そしてコリアは事実上、中国の一部であったことがある、と。

元号と旧暦の起源・・・「平成」「令和」などの元号も、今の日本で使われている旧暦の直接的な起源も、武帝である。

 一人の天子の治世を複数に区分する「改元」という発想は、第五代皇帝・文帝(劉邦の息子)と第六代皇帝の景帝の時代に確立した。

 第七代皇帝・武帝は、治世の途中で何度も改元したのみならず、それぞれに固有の名称を与え、現代まで続く「元号」のシステムを定めた。

 また暦についても「夏正」(「建寅の月」を正月とする太陰太陽暦)を採用した「太初暦」が作られた。現在の東アジアの「旧暦」(正確には「夏暦」と呼ぶ)の直接の始まりも、武帝の時代である。

 武帝の時代の元号は結局「建元 元光 元朔 元狩 元鼎 元封 太初 天漢 太始 征和 後元」であった。(こちらも参照)

文芸・・・武帝の時代は、儒学者の董仲舒(とう・ちゅうじょ、紀元前176年? - 紀元前104年?)、『史記』を著した歴史家の司馬遷(しば・せん、紀元前145/135年?-紀元前87/86年?)、文人の司馬相如(しば・しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)など、知識人や言論人が大活躍した時代であった。

 武帝自身も「詩人」としての素質をもち、「秋風辞」(しゅうふうのじ)などの漢詩を残している。

   秋風辞        漢 武帝

 秋風起兮白雲飛    秋風起こって 白雲飛び、

 草木黄落兮雁南帰   草木黄落して 雁 南に帰る。

 蘭有秀兮菊有芳    蘭に秀有り 菊に芳有り、

 懐佳人兮不能忘    佳人を懐いて 忘るる能はず。

 汎楼船兮済汾河    楼船を汎(うか)べて 汾河を済(わた)り、

 横中流兮揚素波    中流に横たわり 素波を揚げ、

 簫鼓鳴兮発棹歌    簫鼓鳴って 棹歌を発す。

 歓楽極兮哀情多    歓楽極まりて 哀情多し、

 少壮幾時兮奈老何   少壮幾時ぞ 老いを奈何(いかん)せん

  (こちらも参照)

後宮の制度の充実・・・前漢の初め、後宮の組織は比較的簡素だったが、武帝の時代に側室の階層を拡充した。

帝王遊仙・・・「遊仙」は、人間が一時的に俗世を離れて神仙世界を遊歴するという、中国文化のモチーフの一つ。その中でも、人間界の栄華をきわめた君主が不老不死の神仙の世界を垣間見るという遊仙説話の趣向を、特に「帝王遊仙」と呼ぶ。

 西王母と会った周の穆王(穆天子伝)や漢の武帝(漢武帝内伝、黄帝素女経)、月の宮殿に遊んだり遊仙枕を入手した唐の玄宗、女神と交わる「巫山の夢」を見た楚の懐王、龍に乗って昇天した太古の黄帝(列仙伝)、等の説話は、特に有名。帝王遊仙の趣向は、日本の文芸作品にも影響を与えた。参考[中国文学研究者の目から見た謡曲『邯鄲』の魅力についてのメモ]

武帝が出てくる日本の作品

 中島敦の小説『李陵』(青空文庫) 武帝と司馬遷の確執が描かれる

 吉川幸次郎の評伝 『漢の武帝』岩波新書 名著。『史記』『漢書』をベースに当時の学者の研究成果をふまえる。

 北方謙三氏の小説 『史記 武帝紀』 角川春樹事務所 歴史小説。

〇武帝の政治的事蹟

★内政 知識人の活用と中央集権

 「郷挙里選」という官吏任用法を採用し、各地の有能な人材を推挙させ、中央集権を強化した。

 「推恩の令」を出し、遺産相続の兄弟平等化をすすめることで、諸侯王の領土を細分化して諸侯王の権勢を弱め、中央集権を強化した。

 董仲舒の献策をいれて五経博士を設置、儒教を官学とする道をつけた。

 商人あがりの政治家・桑弘羊の献策をいれて、均輸法・平準法や、塩・鉄・酒の専売制を始めて国家の財源を確保したが、民生や民間の自由な商業を圧迫した。cf.『塩鉄論』

★外征 積極的な軍事行動

 北方遊牧民族の国・匈奴(きょうど)への外征。衛皇后の弟である衛青と、その甥の霍去病(かくきょへい)の両将軍に匈奴を攻めさせた。

 対匈奴軍事作戦の一環として、張騫を西域の大月氏国に派遣し、シルクロードの交易にも多大の影響を与えた。

 南越国(現在の広東省、広西省、ベトナム北部)に大軍を派遣して前111年に征服し、南越九郡(南海九郡とも。南海郡、蒼梧郡、合浦郡、鬱林郡、交阯郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡)を置いた。

cf.いわゆる「魏志倭人伝」の一文「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」。

 紀元前109年、武帝は現在の雲南省東部にあった滇(てん)を征服し、益州郡を置いた。

 前108年、朝鮮半島に遠征し「漢の四郡」を置いた。

〇武帝と女性たち

 武帝が登場するまでの前漢は、始皇帝の秦にくらべても、地味な王朝だった。高祖劉邦の建国、未亡人である呂后の専権、文景の治(文帝と景帝の治)、など、宮廷内の波風は民間の生活に悪影響を与えることはなく、人民は休息し、国庫は豊かになった。

 景帝の十男(九男説もある)で「彘」(てい、ブタの意)という幼名を与えられた劉徹は、本来なら、ただの皇子として平凡な生涯を送るはずだった。しかし、祖母である竇氏(文帝の皇后)の強い意向で、先に皇太子に立っていた異母兄を押しのけて、前141年、数え十六歳の若さで即位した。皇后になったのは、竇氏の孫娘でいとこである陳皇后だった。

 気位の高いセレブであった陳皇后との夫婦仲は悪かった。武帝は、姉の平陽公主のやしきのコーラスガールで、私生児であった衛子夫を見初めた。衛子夫は武帝の長男を産み、衛皇后となり、一族もとりたてられたが、最晩年は「巫蠱の乱」で息子ともども悲惨な最期をたどった。

 その他にも、武帝は生涯で数多くの女性を寵愛した。なかでも「傾国の美女」「傾城」の由来となった李夫人は有名。

 武帝が生涯で最後に寵愛した鉤弋夫人(こうよくふじん)、別名、趙倢伃(ちょうしょうよ)または拳夫人は、武帝の末子でのちに第八代皇帝・昭帝となる劉弗陵(前94年-前74年)を生んだ。武帝は、劉弗陵を後継者に指名するにあたり、鉤弋夫人を殺害させた(史学界ではこのようなやりかたを「立子殺母」「子貴母死」と呼ぶ)。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000