悪魔と鬼

まづ部屋の氣を入れ換へる追儺かな  高資

十三の鬼や柊挿すところ  高資

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十三の鬼」の13は何を意味するのでしょう?

タロットカードの13には名前がありません。その理由を「秘伝カモワンタロット」では「13という数字と同様、言葉に出して呼び出してはならないほど恐ろしい存在だから」だと述べています。13日の金曜日はイエスが処刑されたとする「不吉な日」のいわれがあるからでしょうか?13と鬼の関係が興味を引き立てます。

五島高資  二年前のことで私も忘れてしまい恐縮です。たしか経穴の十三鬼穴が頭にあったのかしれません。

「スリランカの悪魔祓い」という本を読んで感銘を受けたことがあります。悪魔は仲良くする者のようです。独りよがりの善悪の区分から解放され、ニュートラルな目で「悪魔とレッテル貼り」をしたすべてを見る必要があるとも言えそうです。すると自分の影におびえないで 仲良くできないすべての背後に隠されている 真実の気持ち、願い即ちフイール、ウオント、ウイリングを観る事が可能となります。

煩悩即菩提ダイヤログリフレーミングNLP~リフレーミングも参考になります。

鬼と悪魔はどのように違うのでしょう?ハンセン氏病の人たちが鬼と表現されたとも聞きます・・・

五島高資  鬼の原義は「隠」で、目に見えない力の象徴なのかもしれません。邪神はもちろん死者の魂などその意味するところは多岐にわたります。

内容(「BOOK」データベースより) スリランカでは、「孤独な人に悪魔は憑く」と言う。そして実際、病の人が出たら、村人総出で「悪魔祓い」の儀式を行い、治してしまう。著者は、そこに「癒し」の原点を見た。「癒されたい」人から、自ら「癒されていく」社会へ。孤独に陥りがちな現代日本人に、社会や人とのつながり、その重要性を問いかける

内容(「BOOK」データベースより) 「悪魔祓いは、いまこそ求められているのではないか。満たされない心と体を抱えている人々の住むこの時代、この場所で」と言う著者の魂を揺り動かしたものは何か…くよくよしてばかりいた人が、孤独に心を閉ざしていた人が、生気を失っていた人が、悪魔に出会うことで、生命力を取り戻すのはなぜか!?人の「癒し」を問いつづける第一人者が、体当たりでつかんだ「悪魔療法」!自分の内なる力に気づく本。  

著者について 1958年、東京都に生まれる。東京大学大学院博士課程を修了。文化人類学者。東京工業大学大学院社会理工学研究科助教授。人間の「癒し」を多方面から追究しつづけている。著書には『癒しの時代をひらく』『日本型システムの終焉』(以上、法蔵館)、『宗教クライシス』(岩波書店)、『覚醒のネットワーク』(講談社+α文庫)などがある。

漫画家 巨椋修(おぐらおさむ)氏は 悪魔と鬼の違いを どちらとも地獄に落ちたものをいたぶるが「悪魔・西欧生まれの 人々に恐怖を与える存在」は趣味でいたぶり「鬼・日本生まれの人々に恐怖を与える存在」は閻魔大王をトップに、いろいろなランクがあり、それぞれに役割があるお仕事としてのいたぶりだと区別しています。

和の国日本生まれの鬼の代表格 閻魔大王とはどんな存在でしょう?

黄泉の国の番人「閻魔さま」の名を知らない方はおそらくいないのではないでしょうか?生前の記録が記された閻魔帳を片手に「生きてきたすべてを裁き 黄泉の国の行き先が 天国になるか地獄になるかを決める」裁き主として知られ 「嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる」と脅されもした 子ども時代の記憶がよみがえります。

色々な地獄が描かれてきましたが 地獄の住人とは消滅を願っても存在し続ける「火の鳥」のことかも知れません。絶望を生き続けることかも知れません。逆に 飢え渇き、いつまでも生き続けたいともがき苦しむことかも知れません。両者は逆のことのように見えながら同じことかも知れません。野の花のように「今」に目覚め、今を輝き生きるしか、幸いはないのかもしれません。

しかし地獄をも引き受けるところに魂の成長があり、自分が選択の主体として、点でしかすぎなくとも円(縁)を紡ぐ勇気を抱くとき地獄が終わるのかもしれません。

そんな厳つい黄泉の国の裁き主のイメージはどうしても男性イメージでした。インターネットで見ても男性イメージです。しかし 最近学び始めたカモワンタロットでは 閻魔は女性です。私の霊現象で受け取ったメッセージでも 閻魔は女性です。

大宇宙のだれもが知る公理は自転と公転です。エネルギーのベクトルは遠心力、求心力として調和バランスを保ちます。

創造はエネルギーの密集を必要とします。求心力こそ愛と創造のエネルギーになります。

求心力が働くところには当然遠心力が働きます。このエネルギーは分析、正義、裁き(閻魔大王)のエネルギーです。創造主が生まれれば破壊主が生まれます。

死と再生はセットでメビウスの輪のように循環し合いながら「統合・シフト・創造」あるいは「分断、乖離、消滅」のどちらかに向かいます。


うつせみを分けてや冬の夕焼雲  高資

創世記(旧約聖書)には神が人間を祝福し「園のどの木からでも自由に実を取って食べてもよい。しかし 園の中央に植えられた 善悪を知る木からだけは取って食べてはならない、食べると死ぬから」と戒めたと記されています。「自分は善悪を知るものだと驕る」時 死が訪れるとも読めます。裁きは周囲からの怒りをかい 愛を失うことになるとも言えます。遠心力に傾く時、 愛を失い 死が訪れるとも言えます。しかし求心力のみであると 個がのみ込まれ 癒着とカオスの世界になってしまいます。両極のバランスが大事だと言えるのかもしれません。

ユングが集合無意識に存在する元型にアニム、アニムスがあるとのべているのも興味深いです。閻魔は男性でも女性でもあることでようやく お役目が果たせるのかもしれません。


蝙蝠の堕ちてはやがて飛び立てり  高資 

蝙蝠の夜空へ帰る天馬かな  高資

城あとに水の匂いや蚊喰鳥  高資

イソップ寓話の一つ。「鳥と獣と蝙蝠」ウィキペディアよりあらすじを紹介。昔々、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていた。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です。」と言った。鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です。」と言った。 その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わったが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をした(双方に敵となった)コウモリは、獣からも鳥からも「獣でも鳥でもない戦うべき相手」と見做され、嫌われ、仲間はずれにされてしまう。居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった。

内容(「BOOK」データベースより) 血気にはやる若者ゲドは、魔法の修行中、傲りと妬みの心から禁じられた呪文を唱え、死の国の影を呼び出してしまう。その影(実は自らの魔性の影)との激しい戦いを通して、ゲドは光と闇の世界の神秘に触れ、人生の真実に目覚めてゆく。神話的な多島海世界を舞台に、「無意識の闇」の謎に迫るファンタジーの傑作。

月明かり(斜光)の影は異様に大きいですが、真昼の(真上の)太陽光が結ぶ影は等身大です。自分の月明かりで見た鬼(穏)に真上からの光を当てると、怯えるほど大きな影が等身大になり、「悪魔とレッテル貼り」をしたすべてをニュートラルな目で見、自分の影におびえないで お眼鏡に叶わない、期待外れの影に隠されている「真実の気持ち、願い」即ち「フイール、ウオント、ウイリング」を観る事が可能となります。

子育てに於いても親の期待を生きるアダルトチルドレンの悲劇が憂われます。親の期待は 発達課題という社会の物差しに根差し 優劣の競争原理に毒され続けています。「這えば立て立てば歩めの親心」とは子どもの1日でも早い成長を 待ち望む親の心をいう言葉。独自なありのままの現実のわが子から出発しないで 大人の価値観から出発し、親は親で育児ノイローゼとかに~~~今に、現実に目覚めていたいものです。

嫌な事、鬼(穏)は自分を知る大きな手掛かりを与えてくれます。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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