http://www.step.aichi-edu.ac.jp/iastronomy/astronomy.html 【天文学とは】より
天文学(てんもんがく)とは天体と宇宙を研究する学問です。大ざっぱな分類ですが、表1のように4つに分野に分けることが出来ます。位置天文学と天体力学は伝統的な天文学です。天体物理学と宇宙物理学は20世紀になってから飛躍的に研究が進んだ分野です。天文学は国内では地学の授業で教えられることが多いのですが、物理学と密接に関わっています。最近では、星間ガスや隕石などを化学的に研究する宇宙化学や、生命の起源の研究や地球外生命体の探索などを行う宇宙生物学なども、天文学の一分野として取り扱われる場合が増えています。この様に最近の天文学は様々な科学分野が複合した総合科学です。
表1 大まかな天文学の分類
位置天文学(天体の位置を研究する天文学) 天体力学(天体の動きを研究する天文学)
天体物理学(天体の状態や進化などを研究する天文学) 宇宙物理学(宇宙の構造や起源などを研究する天文学)
天体や宇宙に関する知識が増えるに従い、天文学の研究対象が多様化しています。表2に研究対象に基づいた分類を掲載したので、御覧ください。また、研究のスタイルによって、天文学は理論天文学と観測天文学に分類することが可能です。理論天文学とは物理法則と観測データを用いて、コンピューターによるシミュレーション計算よって研究を進める天文学です。観測天文学は観測に用いる媒体(電磁波の種類など)によって細分化されています。表3に主な分類をまとめたので、参照してください。
表2 研究対象に基づく天文学の分類
宇宙論 銀河外天文学 銀河天文学 恒星天文学 惑星科学 太陽天文学
表3 使用媒体に基づく観測天文学の分類
電波天文学 赤外線天文学 光学天文学 紫外線天文学
X線天文学 ガンマー線天文学 ニュートリノ天文学 宇宙線天文学
天文学の歴史
科学技術の進歩と共に天文学の研究手法も進歩しています。それに伴い、天文学の研究の対象は広がっています。その様子を紹介しながら、天文学の歴史を振り返ってみましょう。
最も古い天文学は位置天文学です。メソポタミアの遊牧民は家畜の餌となる草が生える時期を知るために星座を考案したと言われています。農耕が始まると、タネまきの時期を正確に知るために、エジプトなどの古代文明では天体の観測が行われていました。暦を知るために天体の位置を研究することが天文学の始まりと言えるでしょう。肉眼による最高の天文学者はティコ・ブラーエです。1分(1度の60分の1の角度)の精度で、月や惑星の位置を測定したと伝わっています。
天文学の進歩に大きく貢献したのが望遠鏡の発明です。ガリレオは1609年にレンズを使った屈折望遠鏡を製作し、太陽の黒点、月のクレーター、木星の衛星を発見しました。天の川が無数の恒星で構成されていることを知りました。天体の性質を調べる研究(太陽天文学、惑星科学)も天文学の分野となりました。
同じ頃、惑星の動きの観測結果から法則を発見したのがケプラーです。1609年に第1法則と第2法則、1618年に第3法則を発表しました。ケプラーの法則を基に、ニュートンは万有引力の法則を導き出しました。これは天文現象を力学的に取り扱う新しい天文学、天体力学の始まりです。
ニュートンは凹面鏡で光を集める望遠鏡(反射望遠鏡)を1668年に発明しました。反射式望遠鏡は屈折望遠鏡のよりも筒を短くすることが容易です。凹面鏡を大きくしても光の損失が起こらないため、大型化することが出来ます。すばる望遠鏡など現在の大型望遠鏡も反射望遠鏡です。反射望遠鏡による最初の大きな成果はウィリアム・ハーシェルによる天王星の発見(1781年)だと言われています。太陽系の広さが2倍に拡大しました。また、ハーシェルは恒星の位置と明るさを精密に測定を行い、恒星の分布に偏りがあることを示しました。この観測結果より、恒星は集団で存在しているのではないかと考えました。この仮説は銀河の存在を予見したものであり、銀河天文学の始まりと言えます。
19世紀になると写真技術が発明され、1840年頃、天文学の研究にも導入されました。これにより客観的な記録が可能になり、長時間露光により詳細に天体を観測することが出来るようになりました。19世紀の後半には光を波長に分けたスペクトルを調べる分光技術が開発され、20世紀になると天体の元素組成や動きなどが詳細に調べられるようになりました。ハッブルが1928年に発表した研究は天文学者に大きな衝撃を与えました。28個の銀河のスペクトルを分析したところ、遠い銀河ほど早いスペードで我々から遠ざかっていると言う内容でした。この結果は宇宙が膨張していることを示しており、宇宙全体の起源と進化を考える宇宙論の始まりでした。
20世紀後半になると、可視光以外の電磁波による観測が開始され、天文学は大きく発展しました。電波を観測する電波望遠鏡により、可視光では観測できないが強力な電波を出している銀河やクエーサーが発見されました。かに星雲ではパルサーが発見されました。人工衛星を用いたX線の観測は、中性子星やブラックホールの研究に大きく貢献しています。また、ボイジャーなどの探査機による惑星の観測は詳細なデータを我々に提供し、惑星科学は飛躍的に進歩しました。
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/index.html 【天文学の歴史】より
古代の宇宙観
古代のさまざまな宇宙観 古代の天文学
プトレマイオスの天動説
天動説から地動説
コペルニクスの地動説 ガリレオの天体観測
ケプラーの法則 ニュートンの万有引力
ハレー:彗星の予言と恒星の固有運動の発見 ブラッドリー:恒星の年周光行差の観測
ベッセル:恒星の年周視差の観測 フーコ:地球の自転の証明
ハーシェルの観測
銀河の拡大
シャプレーとハッブル:銀河系および銀河の発見 宇宙背景輻射の発見
マイクロ波観測衛星 WMAPによる宇宙年齢の決定
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer01/index.html 【古代のさまざまな宇宙観】より
古代の人々は、その環境に応じた世界観、そして宇宙観をつくり、それらを神話として残していきました。当時は、現在の私たちの日常の感覚と同様に、地球は動かず、太陽や星の方が動いているということが前提となっています。
たとえば古代インドでは、世界は巨大な亀の甲羅(こうら)に支えられた3頭の象が半球状の大地を支えていると考えられていました。この大地の上には須弥山(しゅみせん)とよばれる高い山がそびえていると考えていました。須弥山の下には、下から風輪(ふうりん)、水輪(すいりん)、地輪(じりん)(金輪[こんりん])と重なる世界があり、周囲は九山八海(くせんはっかい)が同心円状に交互にとりかこみ、人間が住むのは最外縁の閻浮提(えんぶだい)とされています。中腹の四方には四天王、頂上には帝釈(たいしゃく)天を中心とする三十三天の宮殿があり、太陽や月はこの山の中腹を回っています。この宇宙観(須弥山宇宙説)は仏教とともに日本にも伝えられ、江戸時代に仏教天文説を目に見える形で表した時計じかけの「須弥山儀」が考案されたりしています。
古代インドの宇宙観
中国では、これとは独自に、天は蓋(ふた)のように大地をおおっている天蓋(てんがい)説、あるいは卵殻(らんかく)形の天が卵黄に相当する地球をかこんでいるとする渾天(こんてん)説などが考えられています。
もともと私たち日本人が用いている「宇宙」という言葉も、「宇」が天地四方を、「宙」が古往今来(こおうこんらい)、すなわち時間を表すものとして、紀元前160年ごろの「淮南子(えなんじ)」に登場します。
エジプト人の宇宙観
一方、西洋星座の原型をつくりだしたメソポタミア地方の古代カルデア人は、大地は海でかこまれ、その海はまた高い壁で外側をかこまれており、その上に釣鐘(つりがね)形の天井がおおいかぶさっていると考えていました。中国の天蓋説と異なり、この天井の東西に開いた穴を通して太陽が出没することで昼と夜ができると考えていたようです。
ピラミッドなどの建造で知られるエジプト文明でも、初期の宇宙観は同様に地球中心でした。大地の四隅には天を支える高い山があり、その中央を流れるのがナイル川でした。星は天に張りついたまま天といっしょに動きます。そして、太陽神ラーが毎日ボートに乗って、天のナイル川を渡ることで昼夜ができると考えていました。太陽が毎日しずんで復活することで、死からの復活を結びつけた太陽信仰ができあがったのですが、暦を作る必要性にせまられていたエジプトでは、星や太陽を観測する高度な技術をもっていたこともあり、ギリシアとの文化の融合(ゆうごう)もあって、このような神話的な宇宙観から、やがてより科学的な宇宙像をつくりだしていくことになります。
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer02/index.html 【古代の天文学】より
紀元前6世紀ごろから、古代ギリシアやエジプトでは、科学的な世界観あるいは宇宙観を追求する学者が現れはじめました。とくに、ピタゴラスは数学の始祖(しそ)ともいわれ、自らが主宰(しゅさい)した教団から多くの学者を輩出(はいしゅつ)し、ピタゴラス学派とよばれています。とくにすぐれていたのは宇宙観で、地球は他の天体とともに「中心火」のまわりを回転する球体であると考えていました。宇宙では天体が数学的な法則にしたがって運動し、この運動が調和を生むという原理のもとで、天体の運行と音楽(和音)とを結びつけて考えていました。
紀元前3世紀に活躍したアリスタルコスは、このピタゴラス派の宇宙観を支持し、地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているという説をとなえるに至りました。地球から太陽、そして月までの相対的な距離と、それぞれの大きさを概算する方法を編みだしました。さらに実際の観測を行って、地球から月及び太陽までの距離の比を1:18~20、月の大きさが地球の約3分の1、太陽の大きさを地球の約7倍と推定したのです。
エラトステネスの地球測定
エラトステネスが行った地球全周距離の測定
これらの数値は、現実の値とはかなりかけはなれている(たとえば地球から月及び太陽までの距離の比は1:389)ものの、その論理はまちがっていませんでした。これらの発想は、後世コペルニクスの地動説に大きなヒントを与えることになります。
同じころ、エラトステネスは、地球が球形であり、その大きさを独自の方法で計測しました。垂直に立てた棒の影を観察し、エジプト南部のシエネでは夏至の日に太陽がちょうど天頂を通過しますが、古代都市アレクサンドリアでは7度南に傾いていることに気づいたのです。シエネとアレクサンドリアの距離を、そのラクダによる所要時間から見積もって、地球の全周の距離を推定しました。その数値は約4万kmとなり、実際の値とほとんどちがっていませんでした。
紀元前2世紀になると、ヒッパルコスがロードス島に天文台を立てて観測を行い、暦を正確にしていったほか、新星の観測や、星図作成を行い、古代の研究と比較して、春分点が黄道上を動いていく歳差(さいさ)現象を発見しました。
ギリシア文明では、これらの天文学上の発展はめざましく、そのほとんどが現代天文学の基礎となっています。しかし、ただ1つピタゴラス学派の地動説は、その後その根拠となる証拠が見つからなかったために、やがてプトレマイオスによって否定されてしまいます。
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer04/index.html 【コペルニクスの地動説】より
プトレマイオスの天動説は、中世まで西洋での宇宙観の基本でした。当時のキリスト教神学でも、人間の住む地球は宇宙の中心であるのにふさわしいと考えられていましたので、その天動説に異議をとなえるのは、相当の覚悟が必要だったのです。
15世紀から16世紀に活躍したポーランドの天文学者コペルニクスは、「周転円」を導入する天動説にも無理があり、古代ギリシアのピタゴラス派がとなえていた地動説の方が、より自然に観測される現象を説明できることに気づいていました。しかし、生前はその発表をためらったようです。
そして自らの死後に、太陽を中心にした地動説を「天球の回転について」として発表しました。しかも、その著書の中で、コペルニクスは「これはあくまで数学的な考察として出版するものである」と、自ら地動説が真実であることを主張するのではないと書くほどの念の入れようでした。それほど当時のキリスト教の教義に反するのは危険だったのです。実際、当時は異端尋問にかけられ、火あぶりにされた学者や知識人もいました。コペルニクスが慎重を期して、自らの著作を死後に発表したのも理解できるでしょう。
コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球を含めた惑星が回り、地球のまわりを月が回るというモデルで、まさしく現実の太陽系をいい当てていたものでした。惑星の逆行現象は、「周転円」などを導入しなくとも、地球が外側の惑星を追い抜くときの見かけの動きとして自然に説明できました。また、水星と金星が地球よりも内側を回っているために、見かけ上、太陽からある一定の範囲内だけを動いて見えることも明確に説明することができました。いずれにしろ、それまでの天動説の内容を完全にくつがえすものです。
18世紀に活躍したドイツの哲学者カントは、この天動説から地動説への転換のような、思想的な大変革を象徴的に「コペルニクス的転回」という言葉で表しました。現在でも見方や考えがまったく正反対に変わるときに使われています。
https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer05/index.html 【ガリレオの天体観測】より
コペルニクスの地動説が出版されてからも、地動説をそのまま信じる天文学者が急増したわけではありませんでした。地動説の証拠がなかなか見いだせなかったからです。たとえば地球が太陽のまわりを1年で1周するなら、それにともなって星の位置がずれて見えるはずです。これを「年周視差」とよんでいますが、恒星の距離は当時考えられていたよりもずっと遠かったため、当時の観測技術ではとらえることができなかったのです。他の証拠もすべて観測の技術革新を待たなくてはなりませんでした。
17世紀の初め、宇宙観を変える1つの技術革新がありました。それが望遠鏡の発明です。イタリアの物理学者であり天文学者、ガリレオ・ガリレイは、オランダで望遠鏡が発明された話を耳にして、すぐに望遠鏡を製作し、それを宇宙に向けたのです。そして、月には無数の凹凸があることや、木星の周囲を回る4つの衛星、そして金星の満ち欠け、太陽黒点などを発見していきました。木星の周囲の4つの衛星は、現在では「ガリレオ衛星」とよばれています。
これらの発見によって、ガリレオはコペルニクスの地動説の方が正しいと強く思うようになったのです。金星の満ち欠け現象は、まさに地球の内側をめぐる惑星の特徴でしたし、ガリレオ衛星が木星のまわりを回ることも、地球を中心に回っていない天体があるということを示す意味で、非常に示唆(しさ)に富んでいました。
ガリレオ
ガリレオの望遠鏡
この自説を、戯曲(ぎきょく)の形を借りて主張した著作が「天文対話」です。この本の中で、ガリレオはプトレマイオスとコペルニクスのそれぞれの説を、地上における潮汐(ちょうせき)作用と関連させながら論じています。この本は1632年にフィレンツェで出版されましたが、すぐにキリスト教の教義にそむく可能性があるということで、ローマへの出頭命令を受けてしまいました。そして、1633年にガリレオは異端(いたん)尋問を受け、地動説を捨てざるを得ませんでした。その尋問の最後に「それでも地球は回っている」とつぶやいたといわれますが、これは後世の創作の可能性が高いとされています。その後、ガリレオは太陽を望遠鏡でのぞいて観測を行ったために失明してしまいますが、1642年に死ぬまで無期限の自宅蟄居(ちっきょ)となりました。
このガリレオ裁判は、20世紀になってようやくその適否についての調査がはじまりました。そして1992年10月に、ローマ正教会は当時の有罪判決は誤りであることを正式に認め、ガリレオはやっと無罪となりました。
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