https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/59_dougen/index.html 【11月の名著『正法眼蔵』】より
日本に禅の思想を確立した一人といわれる、鎌倉時代初期の禅僧・道元(1200~1253)。彼は曹洞宗の宗祖であり、主著「正法眼蔵」は、坐禅のマニュアルや心得として今も多くの人に読み継がれています。ですが、この「正法眼蔵」は単なる「坐禅の書」ではありません。日本の思想家・和辻哲郎やアップルの創始者・スティーブ・ジョブズに影響を与えるなど、一宗派を超えて後世に大きな影響を与え続けています。いわば「人間や世界の本質を問い続ける哲学書」として読み解けるのが「正法眼蔵」なのです。そこで「100分de名著」では、「正法眼蔵」に新しい光を当てなおし、現代に通じるメッセージを読み解きたいと思います。
道元は、京都の貴族の名門に生まれたが、幼くして両親を失いました。世の無常を感じ取った道元は、十四歳にして比叡山に入り出家。しかし一つの疑問に逢着します。仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と説かれているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか? 比叡山では解決を得られなかった道元は、山を下り禅の本場である宋に渡りました。そこでも迷い続けた道元でしたが、最後に出会った如浄禅師の下で参禅中に頓悟。「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という自身の発問の仕方自体がおかしかったことに気づきます。その問いは実はあべこべであり、真実は「われわれは仏だからこそ修行ができる」だった……そう悟ったのです。
自らが悟りを後世に伝えるためにライフワークとして書き残した「正法眼蔵」を読み解くキーワードは「身心脱落」。「悟り」は求めて得られるものではありません。「悟り」を求めている自己を消滅させることで「真理の世界」の中に溶け込むこと…それこそが「身心脱落」なのです。一言でいえば「あらゆる自我意識を捨ててしまうことで、病や老い、死などの現象をあるがまま、そのままに受け容れる境地だ」と仏教思想家のひろさちやさんはいいます。そこには、強い自我意識に縛られ競争心を煽られて、骨身を削られるようなストレスにさらされ続ける現代人が学び取るべき指針がちりばめられています。
厳しい競争社会の中で、気がつけば身も心も何かに追われ生き方を見失いがちな現代。人間や世界の本質に対する深い洞察がこめられた「正法眼蔵」の言葉から、不安や迷いの多い現代を生き抜くための知恵を学んでいきます。
朗読を担当したきたろうさんからのメッセージ
僕たちの学生時代は、難解な本が満ちあふれていました。哲学書や不条理。必死に読んだものです。仏教の本もそうです。でも実は、理解できない事は、笑っちゃう程楽しいんです。そんな気分で道元を読ませてもらいました。道元さんの「一般人は悟らなくてもいい」と言う言葉に、ものすごく親近感がわきました。
第1回 「身心脱落」とは何か?
【指南役】
ひろさちや(仏教思想家)
…著書に『終活なんておやめなさい』『道元 仏道を生きる』等。
【朗読】
きたろう
…「シティボーイズ」所属の俳優。
道元思想のキーワード「身心脱落」。道元が宋で悟りを得るきっかけとなったこの言葉は何を意味するのか? 一言で言えば「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」。自我意識を捨て、あらゆるこだわりをなくして、真理の世界に溶け込んでいくことこそ「身心脱落」なのだ。それは、病や苦悩、死すらもありのままに受け容れる境地。「身心脱落」すれば、何ものにも惑わされない悠々とした生き方が自ずと見えてくる。第一回は、道元の生涯をたどりつつ、「現成公案」の巻を中心に「正法眼蔵」を読み解き、「身心脱落」して世界をありのままに受け容れる生き方を学ぶ。
第2回 迷いと悟りは一体である
「仏法は、人の知るべきにはあらず」。仏教の真理は我々人間には知ることができない、というショッキングな書き出しで始まる「唯仏与仏」の章。だとすると我々は何もできないのか? 道元の提示した答えはいたってシンプルだ。「それなら我々が仏になればいい」。ではどうすれば仏になれるのか? 我々は実は最初から悟りの世界の中にいる。それなのに迷いの中にいると思っている。いわば「悟り」も「迷い」もコインの裏表のようなもので実は一体なのだ。そのことに気づきさえすれば、悟りを求めてあくせくせず、迷ったら迷ったでよく、しっかり迷えばよい。その中にこそ真の悟りがあると道元はいう。第二回は、「生死」「唯仏与仏」の巻を中心に、私たち現代人にも通じる、迷いや不安の捉え方を学んでいく。
名著、げすとこらむ。指南役:ひろさちや 『智慧を言語化した哲学書』
◯『正法眼蔵』 ゲスト講師 ひろさちや
智慧を言語化した哲学書
『正法眼蔵』は、鎌倉時代の曹洞宗の開祖・道元の主著であり、未完の大著です。
『正法眼蔵』というタイトルの「正法」は、正しい教えという意味です。釈迦が説いた教え、つまり「仏教」そのものにほかなりません。それが経典となって「蔵」に納められている。つまり「正法蔵」です。では、お経さえ読めば釈迦の教えが分かるでしょうか。そうではありませんね。それを正しく理解するには、読む者に経典を解釈する力、すなわち「智慧」が必要です。
たとえば、仏教は不殺生戒において生き物を殺してはいけないと教えています。でも、生き物を殺すとは本当はどういうことなのか。たとえば生き物のなかに植物まで含めれば、わたしたち人間は生きていくことができません。ですから、わたしたちはこの教えを解釈しないといけない。解釈するには「智慧」が必要なわけです。
そして、そのような「智慧」を禅者たちは〝眼〟と表現しました。曇りのない眼でもって対象を見たとき、わたしたちは対象を正しく捉えることができる。蔵に納められた経典も、そのような「眼」でもって読み取れば、仏の教えを正しく理解できるのです。それを「正法眼蔵」と呼びます。
道元は、釈迦の正法を正しく読み取る智慧を、弟子たちや後世のわれわれに教えようとしました。それが『正法眼蔵』という書物です。
ご存じのとおり、道元は禅宗の僧侶です。それでは、禅とは何でしょうか。これはいろいろに定義ができると思いますが、ここでは、仏教の真理を言葉によらずに師から弟子へと伝えていく営み、と定義しておきます。禅の特色を示すものとして、
―― 不立文字・以心伝心――
がよく知られていますが、まさに文字(言葉)を立てずに、心から心へと真理を伝えていくのが禅なのです。
だとすると、釈迦の教えを正しく読み取る力を、書物、すなわち言葉をとおして伝えようとした道元の行為は、矛盾になりはしないでしょうか。
たしかにそうかもしれません。しかし彼は、その矛盾にあえて取り組んだのです。その背景には、道元の生きた鎌倉時代に広まっていた末法思想がありました。
末法とは、釈迦の正しい教えが廃れてしまうとされる時代のこと。鎌倉時代の日本において、人々は「いまが末法の世だ」という意識を持っていました。そのなかで、「南無阿弥陀仏」を称えるだけで極楽往生できるという念仏宗の信仰が盛んになります。しかし、道元はそれに反対しました。釈迦の教えを正しく伝える者、つまり正法眼蔵を持っている者さえいれば、釈迦の教えが廃れることなどない。それはいつの世にも残っていくものだ。それが道元の信念でした。
このように考えた道元は禅僧ですが、同時に偉大な哲学者でもあるといえるでしょう。
哲学とは何か。それは、人間の理性、つまり言葉でもって、人類普遍の真理を構築する営みです。道元は、たとえ末法の世になったとしても、仏教の真理を正しく読み取る眼が後世に伝わるよう、自らの智慧――それは、釈迦が菩提樹の下で開いた悟りと同じものである、と彼は信じていました――を言語化して残そうとしたのです。
禅の修行をする人のなかには、『正法眼蔵』を坐禅の方法を教えている指南書だと捉えている人がいます。「坐禅をしない者に『正法眼蔵』が理解できるわけがない」という人もいます。でも、道元が残したかったのは、坐禅のマニュアル本ではなかったとわたしは思います。仏教を正しく理解する眼を、禅の修行をする人にも、しない人にも、広く、そして永く伝えるために『正法眼蔵』を残そうとしたのではないでしょうか。
ですからわたしたちは、この『正法眼蔵』を、一般的な禅の書物としてではなく、仏教を理解する智慧をなんとか言語化しようと試みた道元の、その哲学的思索の跡として読むことにしたいと思います。
第3回 全宇宙が仏性である
「一切衆生悉有仏性」。涅槃経に出てくる有名な一節だが、従来「一切の衆生は仏性を有している」という意味に解釈されてきた。道元はこの一節を大胆に読み変える。「一切が衆生なり、悉有が仏性なり」。衆生が悉有(全宇宙・全存在)であり、その全宇宙こそ「仏性」であるというのだ。この見方に立てば、私たちは仏性の中で呼吸し、仏性の中で生活していることになる。それは、仏こそ万物を生かしている命であり、山川草木全てがそのまま仏の命のあらわれであるという壮大な世界観である。第三回は、「仏性」の巻を中心に、あるがままの姿に仏をみる道元思想の真髄に迫る。
もっと「正法眼蔵」
第4回 全ての行為が修行である
道元は「修証一等」という立場に立つ。普通は悟りを得るための手段として修行をすると考えられているが、道元はそうは考えない。修行そのもの中に悟りがあり、悟りの中に修行があるとみるのである。この立場に立てば、行(歩き)・住(止まり)・坐(坐り)・臥(臥す)といった生活の一挙手一投足が修行となり、その只中にこそ悟りがあると道元はいう。第四回は、「洗浄」「諸悪莫作」「菩提薩埵四摂法」等の巻を通して、人のふるまいを何よりも重んじた道元の言葉から、人として生きるべき指針を学んでいく。
こぼれ話。
「正法眼蔵」を「哲学書」として読み解く!
道元の思想に興味をもったのは、尊敬するスティーブ・ジョブズが曹洞宗の僧侶・乙川弘文さんにとても強い影響を受けたというエピソードを聞いてからでした。彼は一時、創業したアップル社を追われ、次世代のコンピュータを開発すべく新会社を設立しますが、その際に、この乙川さんに「宗教指導者」という役職を与え、会社の運営に関わってもらうことにしたといわれています。ジョブズはさらに、自らの結婚式のセレモニー・マスターを担当してもらうほど、乙川さんと深い交流をしていました。
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乙川さんが伝えた思想の何がジョブズにインパクトを与えたのか? 残念ながら乙川さんの思想をまとまった形で紹介した書籍がほとんど存在しないため、想像をするしかない部分も多いのですが、乙川さんをアメリカに招聘した僧侶・鈴木俊隆さんによる著「禅マインド ビギナーズ・マインド」という書籍が世界24カ国以上に翻訳され、今も禅の思想の入門書として読み継がれています。ジョブズも若き日にこの本に熱狂したといわれています。この本などが影響関係を知る絶好の材料になるかもしれません。鈴木俊隆さんは、「日本的霊性」の著者として知られる鈴木大拙とともに「2人の鈴木」と並び称され、欧米に仏教思想を伝えた貢献者として、日本よりも海外で知られている人です。
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前置きが長くなりましたが、こうしたエピソードを知るにつけ、IT業界の寵児ともいわれ、さまざまな新製品を世に送り出して世界の趨勢を大きく変えたといわれるジョブズに、ここまで深い影響を与えた思想とは何だろう?という疑問が大きく膨れ上がりました。それを知るには、その源流である道元の思想を知るしかないと思ったのが番組で取り組むきっかけとなりました。
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ただ大きな問題がありました。まず彼の主著「正法眼蔵」があまりにも難解すぎること。世に多くの解説書も出回っていますが、これが原典に輪をかけて難しい。道元の思想を読み解くのに西洋哲学の用語などを駆使したものも多く、これでは多くの視聴者の「入門」の役割を果たす「100分de名著」の参考にはなりません。また、特定宗派の教義に引き付けて解説された本も多いのですが、これもまた、単なる「一宗教書」にとどまらず、世界に影響を与えた普遍的な「哲学書」「思想書」として「正法眼蔵」を読み解きたいと意図していたので、ぴったりとはまるものがありませんでした。
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今回講師を担当してくださった、ひろさちやさんは、そんな中でも、難解な用語を極力使わず、一般の人の肌感覚に近い形で、「日常言語」でもって道元を解説している稀有な人でした。また立場も、特定の宗派に所属しない在野の研究者で、とてもニュートラルな視点をおもちでした。もちろん「やさしい言葉」だけでは、道元思想の本質や根源的なところに迫れない部分もあるかもしれません。ですが、まずこの近づき難い名著の「入り口」に立つことが一番大切であり、その「入り口」を作ってくれる最適な人がひろさちやさんではないかと考えたのです。
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ひろさちやさんに解説をいただく中で、道元の思想がジョブズに影響を与えた要素、もっといえば、私たち現代人がこの思想から学ぶべき大きなポイントがみえてきました。いくつかご紹介しましょう。
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○「ミニマリスト的デザイン」と「不戯論」
ひろさちやさんは、道元の絶筆ともいえる「八大人覚」の巻で解かれる菩薩が学ぶべき八つの指針の最後の項目「不戯論」について、「物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取ること」であると解説しました。ジョブズが世に送り出した革新的なスマートフォンの設計思想はこれに通じるものがあります。徹底的に無駄な要素をそぎ落としていき、最終的に、ハード系のボタンは、ホームボタンと電源スイッチ、音量ボタンのみしか実装されていないというシンプルさ。しかも操作マニュアルすらこの製品には同梱されていません。これは「ミニマリスト的デザインの極致」と表現されることもありますが、人間が根源的に求めているのはこうしたシンプルさにあるのではないかというジョブズの直観によるものではないかと感じられます。ガラパゴス化の果てに、機能は豊富だがどう扱ってよいかわからないといった家電製品が世にあふれている中、この製品の革新性は大きく人々の心をつかみました。物事を複雑に考えすぎて出口を見失っている現代社会、徹底して「シンプルさ」を追及する道元とジョブズの精神に学ぶべき点は大きいと思います。
○「主客未分のインターフェイス」と「身心脱落」
ジョブズが世に送り出した革新的なスマートフォン。そのあまりにも人間的なインターフェイスに、初めて触れて驚いた人も多いかもしれません。まるで布や紙でも触るような感覚で動いていく画面、自分と対象が一体になるような没入感。強固な自我を確立し、自然や対象との間に明確な分割線を引く西欧近代の発想だけでは、この「主客未分のインターフェイス」という発想は得られなかったのではないかとさえ思います。「身心脱落」という道元のキー概念は、ひろさちやさんによれば、強固な自我意識を溶かし、世界に満ち溢れる仏性と一体化することで得られる境地だと解説されていましたが、この「主客未分感」は、機械を単なる対象物としてではなく、人間の五感や体感と一体化するようなインターフェイスとして設計するジョブズの思想と相通じていると感じられます。道元の思想には、私たち現代人が自然や対象と向き合うあり方を考える上でも、重大なヒントがたくさん込められていると思えてなりません。
○「いま、この瞬間を生きる」と「有時」
ジョブズは、毎朝鏡の中の自分に向かって、もし今日が自分の人生最後の日だったら今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうかと問いかけ続けていた…と生前、講演で語っていました。この言葉は、「いま、この瞬間を生きることの大切さ」を常に自分自身に刻むために、私の中でも大切にしてきた言葉です。これは、やはり「有時」という巻で展開される道元の時間論と相通じていると感じられます。ひろさちやさんは、「過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。あなた方はいま為すべきことをしっかりとせよ」というブッダの言葉と重ねながら、「時間とは『いま現在』のことなのだ。だから過去のことも未来のことも憂えず、この瞬間をしっかり生ききりなさい」という道元のメッセージを「有時」の巻から読み解いてくださいました。いま、このときを「人生最後の日」と思って、大切に生ききるというジョブズの姿勢。そして道元の「有時」。過去の膨大なデータやあらかじめ作りこんだ綿密な計画性などに縛られて身動きができなくなりがちな現代の私たちに、大きな問いかけをしていると、痛切に感じます。
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これらは、「正法眼蔵」を「哲学書」として読み解く立場から、道元とジョブズの思想をつないでみることで理解できたほんの一部です。今回、番組でご紹介できた道元「正法眼蔵」も、全体のほんの一部。みなさんも、それぞれの立場から、今の自分に響く道元の言葉を見つけていっていただけたらうれしいです。
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