くさびらの十二に足りぬ日の斑かな 五島高資 — 場所: 大籠キリシタン殉教公園

https://webmagazin-amor.jp/2018/09/22/tokushu23_2/ 【大籠(おおかご)の殉教】より

岡田 謙一(仙台教区・八木山教会、殉教地大籠を守る会事務局)

宮城県と岩手県の県境を挟んで宮城側には米川(登米市東和町米川)の、岩手側には大籠(一関市藤沢町大籠)の殉教地がある。

大籠教会全景

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した1549年から10年後の1558年、当時狼河原(おいのかわら、現在の米川)に住んでいた千葉土佐という浪人が、新しい製鉄技術を学ぶため備中国中山(今の岡山県)から技術者として布留大八郎、小八郎兄弟(のちに千松に住み、千松と名乗る)を招聘した。この兄弟から南蛮流(一説には出雲の古来の製鉄法を一部取り入れたとある)の技術が導入された。その結果、大籠は当時きっての製鉄産地になり、多い時には日産一千貫もの鉄がつくり出された。

千松兄弟の素性についてはいろいろ説があるが、彼等はキリスト教が盛んに布教されていた備中の国の出身であることから、製鉄の技術と同時にキリスト教の知識を併せ持っていたと言われている。この兄弟は製鉄の作業の一つであるたたら・・・(フイゴ)踏みの間、唱え言(祈りのようなものか)を唄うと早く鉄が溶けると指導したと言う。そして、大籠の暮らしも豊かになり、心の安定にも寄与したことから、キリスト教はこの地で一気に広まった。(一説には信徒が三万人にも及んだとも)

地蔵の辻

しかし、徳川幕府のキリシタン禁教令の取り締まりは厳しさを増し、仙台藩も鉄の産地として保護したかったが、やむをえずキリシタン弾圧に本腰を入れざるを得なかった。大籠の「地蔵の辻」で1639年に84名、1940年に94名、計178名が処刑され、また、近くの「上野刑場」では1640年に94名、更に「祭畑刑場」で3~40名等、大籠全体では300余名の処刑が断行されたと言われている。

現在、大籠には刑場跡や密かに遺体が埋められた塚(墓を作ることは許されなかった)、隠れて祈ったと言われる洞窟等の史跡・遺跡が十数カ所残されており、日本国内外から年間二千人近くの見学者、巡礼者が訪れている。1952年(昭和7年)に史跡・遺跡群のほぼ真中に殉教者を顕彰するために大籠教会が建てられたが、現在は無人の教会となっている。この殉教地に立つ教会の教会だけでも何とか後世に残していきたいと仙台方面の信徒が中心になり「殉教地大籠を守る会」を立ち上げ、除草や修繕等の保全活動を細々ではあるが続けている。

幸いなことに、この殉教地を抱える一関市藤沢町は製鉄の歴史と大籠キリシタンの布教と殉教の歴史を子々孫々に伝えたいと、地元の地主・有力者の協力を得て1995年「大籠キリシタン殉教公園」を整備し、その中の「資料館」に数々の遺物や古文書、模型を展示、また、「クルス館」には彫刻家・舟越保武氏の作品を配置している他、同館に登る階段脇には遠藤周作、加賀乙彦、田中澄江等のカトリック作家がこの地を訪れた時の感想を石碑の形で残している。

総じて東北の殉教については、権力によりその記録がほとんど抹消されてしまっているのが大半である。しかし、それはその地で殉教がなかったということではなく、殉教者の名前を知らずとも、彼らのその時の苦しみ、葛藤を推し測り、祈ることは十分できる。


https://blog.goo.ne.jp/zas_001/e/60878f87536af0353c9df3321b612601  【迫害と信仰の歴史を伝える『大籠キリシタン殉教公園』と伊達政宗軍による大量殺戮の地『首壇』】より

2018.05.11(金)徳仙丈山を下りて仙台に戻る途中、大籠キリシタン殉教公園と首壇を訪れてきた。

(この日の想定では、他に登米市東和町米川の三経塚キリシタン遺跡、同市登米町の北上川改修地(相模土手)などにも立ち寄ることにしていたが、それはやはり欲張りすぎというものだった。)

これらの地を訪れようとしたことには、昨年が仙台藩祖伊達政宗生誕450年、今年は明治維新(東北人としては戊辰戦争)150年にあたり、自分なりに陰陽の歴史を再認識しておきたいという思いがあったから。

【大籠キリシタン殉教公園】  所在地:岩手県一関市藤沢町大籠字右名坂28-7

江戸時代のはじめ、この大籠(おおかご)の地は、伊達政宗治世下の仙藩領内であった。

支倉常長一行を慶長遣欧使節としてローマに派遣するなどキリスト教に対しては寛容だった仙台藩も、徳川幕府によるキリシタン禁止令を受けて、その排除に傾いていった。

そして大籠では、300人を超す数のキリシタンが迫害により殉教した。

磔(はりつけ)、打首などその仕打ちはむごいものだった。

【首壇】 くびだん  所在地:宮城県登米市迫町北方山ノ衛9-2

天正18年(1590年)に発生した葛西、大崎一揆。(この一揆は、伊達政宗の陰謀によるものだったとする説がある。)豊臣秀吉から一揆鎮定を命じられた政宗は、翌天正19年6月に行動を開始した。米沢から奥羽山脈を越えて北上し、大崎家臣団を中心とする一揆勢が立て籠もる小野田(現加美町小野田)、四釜(色麻町)、宮崎(現加美町宮崎)を次々制圧。そして一揆勢の最後の砦となった佐沼城に総攻撃をかけ、陥落させた。ここで政宗は、「一人残らず切って捨てるべし」と徹底した処罰を断行した。首をはねられた数は、武士500余、その他女子供を含め2000余。(迫町史では2783人としている。)

首壇は、政宗軍によってなで斬りにされた人の首を埋めたとされている。

(大籠キリシタン資料館わきから300余段の階段が続く大籠殉教記念クルス館への道)

(十字架を背負わされたイエス・キリストがたどった様子を分かりやすく表示している道のオダマキの花)

(この階段を上ればクルス館へ)

(大籠殉教記念クルス館)

 ※彫刻家の舟越保武氏の設計指導によるもの。内部では、氏の3点の作品とメッセージが展示されている。)

(聖クララ像)

(聖マリア・マグダレナ像)

館の前方には、遠藤周作氏のメッセージ碑も置かれている。

(遠藤周作氏メッセージ碑)

資料館に戻り15分の映像を見て、館内をさっと眺めて次に移動した。

関係する箇所が多いので、近場に限って行ってみた。

(地蔵の辻:この場所で、寛永16~17年に178人が殉教した。)

(首実検石:監視役がこの石に座り、地蔵の辻で行われるキリシタンの処刑を監視したと言われる。)

登米市迫町まで戻り、まずは佐沼城跡へ。

この時時間は、午後4時20分。

登米市立歴史博物館はまもなく閉館する時間だった。

(公園内)

そして少し離れた場所にある首壇に向かった。

(首壇:2500人超(2783人とも言われている)の首が埋められたとされている。)

<追記>

三経塚キリシタン遺跡

仙台藩のキリシタン大弾圧は寛永16年(1639年)から翌年にかけての大籠での処刑で終息したものと考えられていたが、昭和29年に、綱木岩木(城)屋敷で発見された「老聞並びに伝説記」により、享保年間に烔屋で働いていた隠れキリシタン120名が切捨場で処刑されたことが判明。海無沢、西側の朴ノ沢と老ノ沢の3か所に40人ずつお経と共に埋められたということから「三経塚」と呼ばれている。


https://shinjuku-shalom.com/archives/18280 【時代の楔(くさび)(エレミヤ12章/使徒12章)】より

■S:今日の聖書の言葉

使徒の働き12章3節

★それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。

■O:今日のコラム

使徒の働きは、聖霊様のお働きの書物でもあります。

イエス様が「約束のものを受け取るまでエルサレムにとどまっていなさい」と仰せられ、それを守った弟子たち120人の上に御霊が注がれました。それから弟子たちを通して、御霊の導きで福音は急速に広がっていきました。

しかし、順調にことは進みません。迫害の時代がやってきます。今日の聖書箇所、使徒の働き12章の1,2節にはこのように書かれています。

「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」

ユダヤ教から派生したナザレ派と呼ばれていたイエス様が述べ伝えた真の福音。この福音があまりにも真理なので、ユダヤ人たちは反発を覚えていました。そのタイミングでヘロデ王は使徒たちを迫害し、殺しました。福音が政治利用された瞬間です。

残念ながらヨハネの兄弟のヤコブは殺されてしまいますが、この一粒の麦が宣教の働きを加速させます。

有名な箇所ですが、このあとペテロが牢に捉えられますが、御霊の導きで自動的に扉が開き、外に出られます。そして、福音はさらに広まっていくのです。

さて、この出来事は一体いつ起こったのでしょうか?今日のみことばにヒントがありますので、考えてみてください。

■A:考えてみよう

答えはちょうど今くらいの時期、春に起こりました。どうしてそういうことが言えるのでしょうか。それはみことばにはっきりと「それは、種なしパンの祝いの時期であった。」と書かれているからです。

「種無しパンの祝い」とは、主が守りなさいと言われた安息日、過越、七週の祭り、仮庵の祭りの過越の祭りに含まれるものです。過越の祭りは必ず春に行われます。ですから、この出来事も春に起こったということがわかります。

主の例祭は、この地で流れるタイムラインに楔(くさび)のように打ち込まれるものです。ですから、主の例祭を学ぶのであれば、より深い神様の奥義を知ることができます。

過ぎ越しの祭りはイエス様が最初に地上に来てくださったことを象徴するお祭りです。罪の奴隷からの解放、贖いの祭りです。

しかし、そのシーズンには困難を通されることがあります。なぜなら、イエス様もゲツセマネ(油絞りという意味)の丘で汗が血のように流れるまで苦しまれ、十字架で苦しまれ、ついに父なる神との断絶まで経験されたからです。

今、このシーズン、様々な困難を通されているかもしれませんが、それは神様に愛されている証拠です。

次のみことばを読み飛ばさないで、このシーズン、何度も熟読してください。そして、味わってください。

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:5-11)

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:19)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:71,72)

神様は私たちを愛し、神の子として成長することを願われています。ですから現実から目を背け、逃げることをせず、全てを受け止め、それでいてその上にある神の真理に目を留めて行きましょう。

今年の過越の祭りは3月28日の日曜日の夕方です。もし導かれる方は下記のところから各家庭で過越の祭りをお祝いできる書籍をお届けできるようになりました。よろしければお求めいただき、それぞれの家庭で過越の祭りをお祝いできたらと願っています。

https://suzume.love/?pid=158000045

■P:祈り

愛する天のお父さん、今日も私を愛してくださり、受け入れてくださっていることを感謝します。今年の過越の祭りに注がれる恵みは何でしょうか。どうか私たちの心を貧しくし、ただあなたにだけ飢え渇くことができるよう、助け導いてください。

今年も十字架の死とともに復活を体験できる過越でありますように。

また、10年前はあの痛ましい地震がありました。今なお苦難の下にある方々に、主の救いと助けがありますよう、心から祈ります。

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

コズミックホリステック医療 俳句療法

吾であり・宇宙である☆和して同せず☆競争ではなく共生を☆

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