百色

Facebook・石川 眞樹夫さん投稿記事

万物は谷神から生み出されている。

感謝 合掌

https://ameblo.jp/makio-ishikawa/image-12609667388-14785975965.html 【命の川は尽きない。「玄牝」げんぴん。】

老子 第六章

  原文

    谷神不死。

    是謂玄牝。

    玄牝之門、是謂天地根。

    緜緜若存、用之不勤。

  書き下し文

    谷神(こくしん)は死せず。

    これを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。

    玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。

    緜緜(めんめん)として存(そん)する若(ご

    と)く、これを用いて勤(つ)きず。

  

  現代語訳

    万物を生み出す谷間の神は、

    とめどなく生み出して死ぬ事は無い。

    これを私は「玄牝(げんぴん)

    – 神秘なる母性」と呼ぶ。

    この玄牝は天地万物を生み出す門でる。

    その存在はぼんやりとはっきりとしない

    ようでありながら、

    その働きは尽きる事は無い。

       

谷神とは女性(器)と大河の源流としての谷川

「道」は万物を生み出す母なる存在であり、その門からとめどなく生命が生み出される。

その姿ははっきりとせず

人間の様な姿をしているわけではないが、女性器から生命が誕生する様に万物は生み出されている。


http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68211 【天の川

Amanogawa】  より

①七夕歌の舞台として天上に見える川。

②神話世界を投影した天上に見える川。

③霊魂昇天の通路。

漢字表記は、天漢・天河・天川。万葉仮名は安麻能我波(あまのがは)(18-4126)。①②③とも、実際の天空上に見える銀河(天の川)を指す表現である。天漢は天上の漢水の意で、地上の漢水が地の涯で天の川に繋がり、天の川の流れが地上の漢水になったとする。

同様な発想は天の川を天上のナイルと呼びナイル川と繋がると見るエジプト等にもある。

①の七夕歌における天の川の描き方は、彦星と織女が川を挟んで向き合う型(8-1518等)、彦星と織女を隔てる障害となる型(10-2038等)、石礫(いしつぶて)が届くほど川幅が狭いのに七夕以外は逢えない掟(おきて)を歎く型(8-1522等)、舟や浅瀬・棚橋等を使い彦星が織女に逢いに行く型(10-2047、2074、2081等)などがある。つまり、天の川は二星にとって、障害と通路の二面的性格を持った存在である。七夕伝説で7月7日しか二星が逢えないのは、本来の中国の伝説では織女は仙女であり、異郷の存在である仙女と人間が出逢えるのが7月7日という異郷と此世が繋がる特別な日のみだからである。天の川は7月7日のみ異郷と此世を結ぶ通路となり、普段は両者を切り離す障害として機能しているのである。丁度三途(さんず)の川が普段は現世と来世の境界であり、七・七忌のみ死者の通路となることに対応している。②は、記紀に登場する「天の安の河」と関連する「天の川 安の渡り」(10-2000)等があり、七夕伝説の起源を悠久の神話世界に措定している。③の霊魂昇天の道とする見方も汎世界的である(2)。(3-420)で、天の川原の禊(みそ)ぎで石田王を復活させようとしたのは、古代日本人も天の川を霊魂昇天の通路と見なしたためであろう。記の「道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)」は伊邪那伎命の帯から成った神で、『おもろさうし』534番の「神の愛(まな)愛(まな)きき帯」が天の川の比喩である如く、帯のように天空に長く横たわる天の川を表わす神と言える。西宮一民『集成古事記』も、この神を「説話的には、黄泉の国から現し国への脱出の長さを暗示する」としている。天の川は死者の国と生者の国を結ぶ通路でもあったのである。勝俣隆「七夕伝説の発生と変容」『古事記年報』49号。出石誠彦『支那神話伝説の研究』(中央公論社)。海部宣男『宇宙をうたう』(中公新書)。勝俣隆『星座で読み解く日本神話』(大修館書店)

勝俣隆

http://blog.tsuzuku-dc.com/?eid=1059417 【映画「玄牝」の「げんぴ」の意味】

ラジオで映画「玄牝」の監督河瀬直美さんのインタビューを聞きました。

「玄牝」のタイトルの意味がよく分かりませんでしたが、「命を繋ぐこと」というようなことを言っていたようでした。

 映画「玄牝」は、愛知県岡崎市にある吉村医院に集う妊産婦さんたちのお産ドキュメンタリーです。

 「自然に子どもを生みたい」と願う女性たちが全国から集まってきて吉村医院で出産を控える女性たちやその家族、病院の関係者などを通じて、つながりゆく「命」を見つめる映画です。

 その為に妊婦さんたちは、スクワット1日300回、斧と腰を垂直にストンと下ろして薪を割る、鍬で畑を耕す、などの自然な生活をしながら出産の準備をしていきます。

 時間を作って観たいとと思います。

 さて、「玄牝」の意味ですが、吉村医院長がよく使う「老子」の言葉からとったそうです。

 谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝と謂う・・・。

 大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。

 これを老子は玄牝、「神秘なる母性」と呼びました。

 そして、「命」は連綿として続いていくのです。

 その人類の尊い「繋ぎ」を私達一人一人がしているのですね。


https://note.com/potton/n/n1d0a2dd40600 【『玄牝(げんぴん)』という映画体験。】

忘れられない映画体験のひとつに、河瀨直美監督の『玄牝』という作品がある。

調べてみると、この作品を映画館で観たのはいまから7年も前だった。

気にはなっていたものの、ミニシアターで細々上映の為、全然観に行くことができずにいたのだが、当時の同僚に「絶対行って!!」と半ば無理矢理勧められ、職場から飛び出し、バス停へ走り、上映最終日に汗だくで映画館へ駆けつけたのを覚えている。最終日の最終上映にもかかわらず、ほぼ満席だった。

愛知県の吉村医院という自然分娩でお産をしている産婦人科のドキュメンタリー。お産は自然な事という理念の元、現代の医学からみると時間が止まったままのような環境で、お母さんは自分のチカラで赤ちゃんを産む。

そこでは出産間近の妊婦さんたちが集団で生活していて、大きなお腹で、農作業や雑巾がけを懸命にこなし、あるべき筋肉や体力を持とうね!という考え方が、私は好きだな、と思った。自然分娩をする勇気はないけれど。

出産に関わる現代医学から遠ざかることで、自然分娩を推奨している吉村医院に対しては、母子の危険性を問う賛否両論はあるらしいけれど、そんなのは他人がとやかく言う事ではない。本人がそうしたい(自然分娩をしたい)、というんだから、それでいいじゃないか、と思う。何を信じるか、に近い話で、いろんな意見があっていいのではないかと思う。

映画は、何人かの妊婦さんにクローズアップして、出産までを密着し、そこまで映すんだな…!という川瀬監督のこだわりが随所にちりばめられている。

満月の夜。一人の赤ちゃんが生まれた。文字にすると、これだけの毎日どこかで起こっている出来事。

ところが、ひとりの赤ちゃんが誕生するシーンで、謎の号泣が起こった。今こうして思い出しながらキーボードを叩いているが、涙目である。それが、劇場全体が号泣だったのだ。満席の劇場が、いっせいにズルズルずびずび湿度100%に。

これは、なんというか、本能だ。

頭で考えて、あれこれ考えて出てくる涙じゃない。

胸の奥の方が、バイブレーションし、自動的に涙と鼻水がでるやつ。

人間には、こんな素敵な本能が備わっているんだ、知らなかった!という部分も含めて二重に感動した。

毎日、残念なニュースで残念な人を見るたびに思う。こんな人たちにも、赤ちゃんが生まれる瞬間をみたら涙する本能が備わっているはずなのに…と。

こんな人たちも、あの奇跡的な感動を伴って生まれてきただろうに、と。

この作品の何が面白いとか、ストーリーがどうとか具体的に説明できないのだけれど、観賞後、頻繁に思い出し、物の見方が変わるくらい、印象的な映画体験だった。

そうゆうのって、あるよね。素敵だよね。


https://www.cinematoday.jp/news/N0027166 【日本の自然分娩に欧州では賛否!『玄牝 -げんぴん-』河瀬直美監督に独占インタビュー!】  より

スペインで開催中の第58回サンセバスチャン国際映画祭コンペティション部門にドキュメンタリー『玄牝 -げんぴん-』で参加中の河瀬直美監督が、現地でインタビューに応じた。

同作品は自然分娩を推奨する愛知県岡崎市の吉村医院の院長・吉村正氏や助産婦、そこに通う妊婦らを追ったドキュメンタリーだが、欧州では宗教的・人権的な理論から病院での無痛分娩が基本とあって、賛否を呼んでいる。 本作品は長年、生と死をテーマに作品作りをしている河瀬監督が、吉村先生に興味を抱き、会いに行ったことから企画がスタートした。ちょうどそのころ、毎年3月に香港国際映画祭に併設されている企画マーケット「HAF」への参加を打診され、2009年3月に本企画を提案。そこでパリス・プロジェクト賞を受賞し、2009年7月にフランスで行われた映画祭「パリスシネマ」の企画マーケット参加の権利を得た。そこでは出資者を募るべく数十社の会社とミーティングを持ったのだが、全員に同様の質問を受けたという。

「欧州ではお産に対する考え方が違うんです。『お産の痛みは、神が与えた罰である。その痛みを助けられるのが、医者である』と。だからここスペインでも無痛分娩が基本だそうですけど、それに対してこの企画は、社会に対して意見を言っていくことになる。それはなぜなのか? フェミニズムに対する挑戦なのか? とか、いろいろ言われました。それに対して私は、この映画は自然分娩を推薦しているだけの映画じゃない。女性の一つの選択肢としてこういうものもあるんだと言うことを提示したいと説明しました。結果、今回は海外からの共同製作を得られず、自身の会社(組画)だけで製作することになったんです。

(カンヌ国際映画祭で新人賞を受賞した)『萌の朱雀』以降、ずっと海外の映画会社の資本を得て作って来ましたからね。原点回帰? ある意味、そうですね」 予想通り、地元紙「エル・ディアリオ・バスコ」の星取表では、10点満点で平均5.5点と、コンペティション作品15本中8位という評価だ。公式上映やプレス試写でも、3人の妊婦の出産シーンに耐えられないのか、途中退席する人も見られた。

しかしその一方、記者会見では女性記者から「この映画は良い教材になると思う」といった声や、上映後に河瀬監督のもとに駆け寄り「生死について考えさせられました」と意見を寄せた女性もいた。 今後同作品はフランス・ポーで開催される映画祭のほか、欧州・南米の映画祭にも出品参加予定だ。「インタビューを受けていて、文化や社会的な違いも超えてわかってくれる人は、わかってもらえたと思っています。日本でも、お産は怖いもので、妊婦は絶対安静という認識があるけど、吉村先生の考えは、お産が普通のことのように行われていた昔のように、妊娠中も体を動かして筋肉を付けて、健康な心身で産みましょうと。でも今は、妊婦はヘンに守られ過ぎているところがあると思うんですね。加えて、現代病と言われるストレスなどで女性が妊娠しづらい体になっている一方で、男性も妊娠させる力がなくなっていると言われている。これって、人類にとってどうなんだ? と。それこそ、子どもの数がどんどん減ったら種の保存がままならなくなるワケでしょう。これを契機に、もう少し先の議論が展開されればうれしいですね」

また河瀬監督と言えば今年8月、自身が顧問を務め「第1回なら国際映画祭」を開催したばかり。主催する側の立場を経験し、映画祭を開催する意義を考えたようだ。「サンセバスチャンは58回と歴史が古く、なら国際映画祭はまだ赤子同然。そのサンセバスチャンの第1回大会のときはどうだったんだろう? と想像しましたね。美しい湾のある観光地で、歴史的な建造物も多いこの街に文化が根付いていく感じは、奈良と似ているような感じがするんです。この街に世界からお客さんが毎年来て、こうして続けていけば、いずれ、なら国際映画祭もこんな風になるのかなぁって(笑)。夢が広がりました」すでになら国際映画祭は来年の第2回大会に向けて、新鋭監督を奈良に招き、奈良を舞台に映画製作をするプロジェクト「NARAtive(ナラティブ)」が始動している。(取材・文:中山治美)


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